田原藩士としてとは? わかりやすく解説

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田原藩士として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:13 UTC 版)

渡辺崋山」の記事における「田原藩士として」の解説

藩士としては、8歳時の藩主三宅康友嫡男亀吉の伽役を命じられ亀吉夭折後もその弟・元吉(後の藩主三宅康明)の伽役となり、藩主康友からも目をかけられるなど、幼少時から藩主一家にごく近い位置にあった。こういった生い立ち崋山藩主一家への親近感や一層の忠誠心つながっていった。16歳正式に藩の江戸屋敷出仕するが、納戸役使番など、藩主にごく近い役目であった文政6年1823年)、田原藩和田氏の娘・たかと結婚し、同8年1825年)には父の病死のため32歳で家督相続し80石の家禄継いだ(父の藩内の出世合わせて、禄は復帰していた)。同9年には取次役となる。 ところが、翌10年藩主康明が28歳病死してしまい、藩首脳部貧窮する藩財政打開するため、当時比較裕福であった姫路藩から養子持参金付き迎えようとした。崋山はこれに強く反発し用人真木定前らとともに康明の異母弟・友信の擁立運動行った結局上層部意思通って養子・康直が藩主となり、崋山一時自暴自棄となって酒浸りの生活を送っている。しかし、一方で首脳部姫路藩双方交渉して後日三宅友信男子(のちの三宅康保)と康直の娘を結婚させ、次の藩主とすることを承諾させている。また藩首脳部は、崋山反対派慰撫目的もあって、友信に前藩主格式与え巣鴨別邸与えて優遇した。崋山側用人として親しく友信と接することとなり、のちに崋山多く蘭学書の購入希望した際には友信が快く資金を出すこともあった。友信は崋山死後の明治14年1881年)に『崋山先生略伝補』として崋山伝記書き残している。 天保3年1832年5月崋山田原藩年寄役末席家老職)に就任する20代半ばから絵画ですでに名を挙げていた崋山は、藩政中枢にはできるだけ近よらずに画業専念したかったようであるが、その希望はかなわなかった。 こうして崋山は、藩政改革尽力する優秀な藩士登用士気上のため、格高制を導入し家格よりも役職反映した俸禄形式とし、合わせて支出引き締め図った。さらに農学者大蔵永常田原招聘して殖産興業行おうとした。永常はまず田原稲作技術改良行い、特に鯨油によるイネ害虫駆除法の導入大きな成果つながったといわれている。さらに当時諸藩有力な財源となりつつあった商品作物栽培行い、特に温暖な気候渥美半島着目してサトウキビ栽培同地定着させようとしたが、これはあまりうまくいかなかった。このほか、ハゼ・コウゾの栽培絞り技術や、藩士内職として土焼人形製造法なども伝えている。 天保7年1836年)から翌年にかけての天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中綱紀粛正倹約徹底領民救済優先徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国唯一幕府から表彰受けている。また、崋山は藩の助郷免除嘆願のために海防政策口実として利用した。それによって田原藩幕府諸藩から海防への取り組み高く評価されたが、それは助郷免除嘆願のための隠れ蓑で、崋山自身開国論持っており、鎖国海防反対だった

※この「田原藩士として」の解説は、「渡辺崋山」の解説の一部です。
「田原藩士として」を含む「渡辺崋山」の記事については、「渡辺崋山」の概要を参照ください。

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