田原藩士として
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藩士としては、8歳で時の藩主三宅康友の嫡男・亀吉の伽役を命じられ、亀吉の夭折後もその弟・元吉(後の藩主・三宅康明)の伽役となり、藩主康友からも目をかけられるなど、幼少時から藩主一家にごく近い位置にあった。こういった生い立ちが崋山の藩主一家への親近感や一層の忠誠心につながっていった。16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕するが、納戸役・使番など、藩主にごく近い役目であった。文政6年(1823年)、田原藩士和田氏の娘・たかと結婚し、同8年(1825年)には父の病死のため32歳で家督を相続し、80石の家禄を継いだ(父の藩内の出世に合わせて、禄は復帰していた)。同9年には取次役となる。 ところが、翌10年に藩主康明が28歳で病死してしまい、藩首脳部は貧窮する藩財政を打開するため、当時比較的裕福であった姫路藩から養子を持参金付きで迎えようとした。崋山はこれに強く反発し、用人の真木定前らとともに康明の異母弟・友信の擁立運動を行った。結局藩上層部の意思が通って養子・康直が藩主となり、崋山は一時自暴自棄となって酒浸りの生活を送っている。しかし、一方で藩首脳部と姫路藩双方と交渉して、後日に三宅友信の男子(のちの三宅康保)と康直の娘を結婚させ、次の藩主とすることを承諾させている。また藩首脳部は、崋山ら反対派の慰撫の目的もあって、友信に前藩主の格式を与え、巣鴨に別邸を与えて優遇した。崋山は側用人として親しく友信と接することとなり、のちに崋山が多くの蘭学書の購入を希望した際には友信が快く資金を出すこともあった。友信は崋山の死後の明治14年(1881年)に『崋山先生略伝補』として崋山の伝記を書き残している。 天保3年(1832年)5月、崋山は田原藩の年寄役末席(家老職)に就任する。20代半ばから絵画ですでに名を挙げていた崋山は、藩政の中枢にはできるだけ近よらずに画業に専念したかったようであるが、その希望はかなわなかった。 こうして崋山は、藩政改革に尽力する。優秀な藩士の登用と士気向上のため、格高制を導入し、家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図った。さらに農学者大蔵永常を田原に招聘して殖産興業を行おうとした。永常はまず田原で稲作の技術改良を行い、特に鯨油によるイネの害虫駆除法の導入は大きな成果につながったといわれている。さらに当時諸藩の有力な財源となりつつあった商品作物の栽培を行い、特に温暖な気候の渥美半島に着目してサトウキビ栽培を同地に定着させようとしたが、これはあまりうまくいかなかった。このほか、ハゼ・コウゾの栽培や蝋絞りの技術や、藩士の内職として土焼人形の製造法なども伝えている。 天保7年(1836年)から翌年にかけての天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けている。また、崋山は藩の助郷免除嘆願のために海防政策を口実として利用した。それによって田原藩は幕府や諸藩から海防への取り組みを高く評価されたが、それは助郷免除嘆願のための隠れ蓑で、崋山自身は開国論を持っており、鎖国・海防に反対だった。
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