琉球館での貿易
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「琉球館での貿易」の解説
進貢、謝恩、慶賀いずれの場合においても、琉球側は清の皇帝に貢物を献上し清の皇帝からは回賜品が贈られた。つまり貢物の献上と回賜品の贈与は一種のバーター取引であった。その一方で琉球側は進貢船や接貢船などに大量の商品や金品を積み込んでおり、清側の監督のもと福州の琉球館で貿易を行った。つまり琉球の朝貢貿易は貢物の献上に対する回賜品の贈与を受ける形式と、清側の監督のもと福州の琉球館で行われる貿易という二つの方法で行われた。 進貢、接貢以外の謝恩、慶賀という機会も、琉球側によって福州の琉球館での貿易の機会となった。そればかりではなく、琉球に漂着する清国人の送還を名目とした解送使の派遣時もまた、格好の貿易チャンスとなった。19世紀の嘉慶、道光期になると解送使の派遣がしばしば行われるようになった。これらの福州の琉球館で行われる貿易は、清側は輸出入とも関税をかけず、琉球にとって有利な条件であった。 輸出入に関して関税をかけることはなかったが、清側は琉球との朝貢貿易の統制は怠らなかった。まず輸出禁止品のチェックが行われた。例えば武器本体や硝石のような兵器の原料となるような物品、そして銅及び銅製品等が輸出禁止であった。銅は清代、消費量に対して産出量が少なかったためである。しかし1744年に福建製の銅製消防用消火ポンプの輸出が認められるなど、状況に応じて特別許可が下りることもあった。また琉球側が持ち込む商品、金品にも統制が加えられた。清側は朝貢貿易において琉球側が持ち込む商品、金品についての総量規制は行わず、琉球側からの申告のみで済ませていた。しかし1747年、琉球側の申告を遥かに上回る商品、金品が持ち込まれていたことが問題視され、以後、清側による査察制度が導入された。しかしその後も清側への申告を上回る量の商品、金品が持ち込まれ続けたと推察されている。 琉球の朝貢貿易に対しては日本側からも統制を掛けられた。まず幕府から規制を掛けられるようになった。1681年の海禁解除後、清からの貿易船の来航が激増して金銀の大量国外流出が始まったことに危機感を抱いた幕府は、貿易制限に舵を切った。そのあおりを受けて1687年以降、琉球の朝貢貿易に総量規制が設けられることになった。しかし渡唐役人そして船長以下乗組員には、貿易業務に対する意欲の向上を図るために一定程度の交易活動が許可されており、主に渡唐役人、乗組員による交易活動の中で幕府、薩摩藩側の規制をかいくぐるような形の密貿易が行われるのを食い止めることは出来なかった。また進貢船等の渡唐役人そして乗組員は私貿易によって多くの利益を得ることが期待できたため希望する者が多く、乗員に割り振られた船内スペースそのものが売買、投機の対象となるほどであった。 1630年代以降、琉球の朝貢貿易の元手となる銀の多くは薩摩藩側によって用立てられた。また17世紀末頃から主力輸出品となっていくフカヒレ、昆布、干アワビ、鰹節といった海産物もまた、薩摩側の手によって琉球にもたらされた。常貢の銅、錫の調達を薩摩藩を通じて行っていたことを含め、琉球は薩摩藩側の援助協力無くしては朝貢と朝貢貿易が維持できなくなっていた。薩摩藩は琉球の対清貿易に関与して利潤を得るように努めたが、19世紀に入るとより統制が強められ、薩摩藩が直接、琉球を通じて入手した中国商品を販売する体制を強化していく。 進貢船、接貢船などによって福州の琉球館に持ち込まれた品物は、清側の監督のもとで琉球館内で取り引きされた。一方琉球館には許可を得た商人たちによって中国製品が持ち込まれ、琉球側によって持ち込まれた銀などによって購入された。商取引は活発に行われ、琉球からの進貢船が到着すると福州の町に活気が溢れるようになったとの言い伝えも残っている。 琉球側が福州館で買い付けた品物は、当初は生糸、織物が重要視されていたが、清国内での生糸、織物の価格高騰や輸出制限、そして日本国内での生産、流通の本格化によって18世紀に入ると低迷するようになり、変わって薬種が主力輸入品となっていく。薬種などの輸入品は琉球国内で消費される分を除き、薩摩を通じて日本国内に流通していった。薩摩藩は輸出入品に対して統制をかけて貿易利益の追求に努め続けたが、完全な把握は不可能であり一部は抜荷、密貿易の形で輸出品は清側に、そして輸入品は薩摩藩側の手を経ることなく流通した。そして薩摩藩の手を経た琉球経由の中国産品の一部もまた、正規ルートを経ることなく闇で流通していた。 19世紀に入ると琉球の朝貢貿易は大きな問題を抱えるようになった。まず清の国力低下につれて海上の治安が悪化し、進貢船が海賊に襲われて積荷が奪われる事態が増加した。そして経済活動が活発化していくのにも関わらず、琉球館の朝貢貿易の様々な規制は改善されなかったため、貿易発展の阻害要因となっていく。更には琉球側は進貢時に福建の官吏に金品を贈ることが常態化するなど、官吏による汚職や非効率などといった弊害も顕著になりつつあった。
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