漫画家としての活動初期: 1978-1983
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「アラン・ムーア」の記事における「漫画家としての活動初期: 1978-1983」の解説
それまでにもアマチュアとしてオルタナティヴ系の媒体にコミックストリップを描いたことはあった。過去にローカル紙 Anon に描いた風刺4コマ Anon E. Mouse(→アノニーマウス)は掲載紙の穏健な政治志向に合わず5回で終わっていた(1974–5年)。1978年2月、アーツ・ラボの人脈を通じてオックスフォードのアングラ隔週刊紙 Back Street Bugle に St. Pancras Panda(→パンダのセント・パンクラス)を無償で寄稿し、翌年3月まで描き続けた。『MAD』誌に影響を受けた1回10–15コマのギャグ漫画だった。初めて対価を得たのは、1978年10月に音楽週刊誌『NME』に掲載されたエルヴィス・コステロのイラストレーションだった。翌年、ヒッピー文化の影響が強い音楽雑誌 Dark Star にスーパーマンのパロディ作品や、友人の原作者スティーヴ・ムーアと組んだ連作を寄稿した。作曲家クルト・ヴァイルをもじった Curt Vile(→「不愛想で下品な」)という筆名を使っていた。このとき作り出したキャラクターに粗暴なサイボーグ傭兵アクセル・プレスボタン(英語版)がいる。 Dark Star とほぼ同時に発行数25万部の音楽週刊誌 Sounds でチャンドラーを気取った口調の探偵が「ロックンロールの死」を調査するスピーゲルマン風の作品 Roscoe Moscow(1979年3月–1980年6月)が連載され始め、週35ポンドの定期収入を確保することができた。しかしそれだけでは生まれたばかりの娘リーア(英語版)を養うことができず、失業給付(英語版)を申請して補った。同誌では Curt Vile として音楽評やインタビュー記事の執筆も行った。Roscoe Moscow が終わると、アクセル・プレスボタンを主人公とするSFパロディ The Stars My Degradation(→わが落ち行くは星の群)(1980年7月–1983年3月)が後を引き継いだ。基本的にムーアが一人で描いていたが、連載の終盤は多忙になったためスティーヴ・ムーアに原作を任せた。これら2作にはすでに特徴的な自己言及性、過密な書き込み、凝ったコマ割りが見て取れる。 1979年から地方紙 Northants Post でコミックストリップ Maxwell the Magic Cat(→魔法の猫マクスウェル)を描き始めた。「子供向けに」という編集者の注文に応じたシンプルな絵柄の5コマ漫画だが、政治的テーマやシュルレアリスムが紛れ込むことがあった。筆名 Jill de Ray は史上最大の子供殺しジル・ド・レにかけたものだった。これによって週10ポンドの増収となり、失業給付を受けずに済むことになった。同作は長期連載となったが、1986年に掲載紙が地元コミュニティにおける同性愛者の立場を否定的に書いたのが理由でムーアによって打ち切られた。 これらの活動を通して、自身の作画家としての才能に見切りをつけて原作に専念すべきだと考えるようになった。コミック原作の基本(絵と内容が重複するナレーションは不要、一コマでは一つの出来事しか描かない、など)についてはスティーヴ・ムーアから教わった。執筆先として英国の主要なコミック雑誌の一つ 2000 ADに狙いを定め、人気連載「ジャッジ・ドレッド(英語版)」のスクリプトを書いて投稿した。同作はジョン・ワグナー(英語版)が書いていた時期で、新人の原作者は求められていなかったが、ワグナーの共作者アラン・グラント(英語版)はムーアの投稿作に将来性を見て取った。グラントに投稿を続けるよう示唆されたムーアは没を出されながらアイディアを送り続け、やがてSF読み切りシリーズ Future Shocks に定期的に作品が掲載されるようになった。Future Shocks は多くのコミック作家が修業時代に携わったことで名高く、ムーアも後に本当に、本当に連載が欲しかった。短編は書きたくなかった。… 来る依頼は短い4–5ページの短編だけで、その中に何もかも詰め込まなければならなかった。でも今になってみれば、ストーリーの組み立て方を学ぶにはこの上ない教育だったと回想している。
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