漫画家として活躍
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1918年(大正7年)から『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』『東京日日新聞』などに、似顔漫画の寄稿を開始した。1919年(大正8年)から翌1920年(大正9年)にかけ、『読売新聞』の専属となり、似顔漫画や風刺漫画を手がける。その後も『中央新聞』『毎夕新聞』『新愛知』(のちの中日新聞)『國民新聞』(のちの東京新聞)などに漫画作品を提供していった。 1930年(昭和5年)、再度読売新聞社の専属となり、1933年(昭和8年)から『読売サンデー漫画』・『読売新聞』に連載した、厭世的な退役軍人を主人公にした4コマ漫画『男やもめの巖さん(おとこやもめのがんさん)』、続いて読売新聞夕刊で連載された4コマ漫画『無軌道父娘(むきどうおやこ)』で、新聞漫画家として広く名が知れ渡るようになった。このころの凹天は、自身の編集による漫画雑誌『漫画』を1926年(大正15年)に、『漫画王国』を1937年(昭和12年)に刊行、漫画家として精力的に活動を行った。 しかし家族生活には恵まれていなかったようで、1919年に生まれた長男は半年後に死亡してしまう。1940年(昭和15年)には妻のたま子が死亡。同年、なみをと再婚する。
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