漫画家として独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:27 UTC 版)
1981年には初単行本である『地獄に堕ちた教師ども』が青林堂から刊行されるのを機にダスキンを退社して漫画家として独立する。 その後、高杉弾(メディアマン)、山崎春美、単行本『地獄に堕ちた教師ども』の装丁を手がけたイラストレーターの湯村輝彦 らによる仕事や編集者の紹介もあり、三流劇画誌『漫画ピラニア』『漫画ラブ&エロス』『漫画カルメン』『劇画セルフ』『劇画ブッチャー』『漫画パーキング』やアリス出版の自販機本『EVE』『ガール&ガール』『ルーシー』『特写最前線』のほか『Jam』『HEAVEN』の系譜を受け継いだ群雄社の自販機本『フォトジェニカ』『スノッブ』『コレクター』など一般書店に並びにくいアンダーグラウンドなカルト系自販機雑誌で数多くの連載を持ち、後に「自販機本漫画界の大御所」と評されるが、これら雑誌はいずれも国立国会図書館に所蔵されておらず、その活動の全貌はつかみがたい。また、1970年代後半から1980年代中頃にかけて川崎ゆきお、宮西計三、平口広美、ひさうちみちお、近藤ようこ、根本敬と幻の名盤解放同盟、山野一、丸尾末広、杉作J太郎、マディ上原らガロ系の後輩漫画家も続々と自販機本や三流劇画誌に進出する。 1982年には山崎春美からの依頼でスーパー変態マガジン『Billy』(白夜書房)3月号で「スーパー変態インタビュー」 に顔出しで応じ、妻の流産を喜ぶ新進気鋭の異端漫画家としてメディアに素顔を公開するようになる。同年、長井勝一の著書『「ガロ」編集長』(筑摩書房)の出版記念パーティーで特殊漫画家の根本敬と因果的邂逅を果たす。 この頃からニューウェーブ系漫画家の一人として『ガロ』以外に『宝島』『漫金超』『平凡パンチ』『ビックリハウス』『アリスくらぶ』『ペリカンクラブ』『季刊コミックアゲイン』『月刊スーパーアクション』などの媒体へも進出。つげ義春やATG映画に影響されたシュールで不条理なギャグ漫画や暴力的なモチーフを多用するダークな漫画を描くようになる。絵は決して上手とは言えないながらも「ヘタウマ」という作風で注目される。 1983年には巻上公一のニュー・ウェイヴテクノポップバンド「ヒカシュー」のシングル『私はバカになりたい』のジャケット画を手がける。これを契機に恐悪狂人団、殺害塩化ビニール、ザ・ゲロゲリゲゲゲ、ハイテクノロジー・スーサイドなど日本を代表するハードコアパンクバンドやノイズミュージシャンのジャケットを手がけるようになり、オルタナティヴ・ミュージックシーンでも蛭子の存在が認知され始める。また「じゃがたら」を率いる江戸アケミからもジャケット画の依頼を生前に受けていたが、その数日後に江戸が自宅で事故死したため、実現することはなかった。 1985年には田口トモロヲのロックバンド「ばちかぶり」のインディーズ1stアルバムのジャケット画をナゴムレコード主宰者のケラ(現・ケラリーノ・サンドロヴィッチ)の依頼で手掛ける。これはナゴムレコード初の黒字レコードとなり(ナゴムはそれまでレコードを出す度に何十万円もの赤字を出していた)、これによりナゴムの自主制作音楽界での認知度は一気に上昇。そろそろナゴムをやめようと思い始めていたケラは同アルバムのヒットによってレーベルを続けていく決意をする。後にケラは「このレコードが爆発的に売れて、そこからインディーズブームなんて言葉が出来て、ナゴムレコードっていうのを背負っちゃったんだな自分はって思い始めた」と回想している。
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