水害と戦災を乗り越えて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 02:45 UTC 版)
700形の投入をはじめとしたソフト・ハード両面でのサービス向上策が功を奏して、省線電車の開通や阪急・阪神の市内乗り入れによる減収を最小限に抑え、市電の利用者数も1932年を底に回復基調をたどるようになった。また、3期線の敷設に一定のめどがついたことから、第4期線として、税関前から湊町1丁目まで、現在の国道2号線となる海岸通を走る海岸線を軸に既存路線との接続路線を含めた3路線と、西郷町・西灘村・六甲村を1929年に編入して発足した灘区内の交通事情改善のために、阪急三宮延長に伴って交通結節点としての機能が低下した上筒井終点から、西宮上ヶ原に移転した関西学院の旧キャンパスである原田の森を抜けて、現在の山手幹線を当時の郡市境である石屋川まで結ぶ4路線の新たな計画線の出願を行い、前者については1937年に、後者は1939年にそれぞれ認可された。しかし、1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件から戦火が拡大、やがて日中全面激突の様相を示すようになると、日増しに戦時色が濃くなり、燃料不足によるバス事業の縮小によって市電の乗客は増えたものの、物資不足によって車両の増備も路線延長もままならなくなり、サービス向上も二の次となってしまった。それに追い討ちをかけるように1938年7月5日に発生した阪神大水害で神戸市内は壊滅的な被害を受ける。その復興もままならぬうちに太平洋戦争に突入し、末期の神戸大空襲(1945年3月17日、6月5日)では長田車両工場をはじめ須磨・布引・春日野の3車庫も被災したことから、軌道や架線の被害を含めると市電は壊滅的な大打撃を受けてしまった。 それでもこれらの災禍を乗り越え、1948年までには空襲の被害が著しかった柳原線を除く全路線と車庫の復旧をなし遂げ、1953年の石屋川線全通で、路線網は最長の35.6kmに達した。なお1942年5月からは、配電事業の関西配電への移管に伴い、管轄部署名を「交通局」に改称している。 しかし1960年代に入るとモータリゼーションの影響により市電の乗客は減少し、赤字問題も俎上に乗せられた。1966年には税関線が廃止され、路線の縮小がはじまった。一時は主な路線を高架化し、定時性と速度を確保した新たな交通機関に再生するプランも浮上したが実現せず、神戸市議会では1967年10月、市電全廃を前提とした「交通事業財政再建計画案」を議決。市電は結局、翌1968年以降毎年の区間廃止を経て、1971年(昭和46年)3月13日限りで62年弱(市営としては54年弱)の幕を閉じた。最後まで残った路線は三宮阪神前 - 楠公前 - 和田岬 - 大橋九丁目 - 板宿であった。 所属車両の一部は後述の通り他事業者へ譲渡されたが、譲渡されなかった車両は魚礁として須磨海づり公園付近の海に沈められた。 市電の晩年に当たる1968年4月7日には、阪急・阪神・山陽を直結し神鉄とも連絡する神戸高速鉄道が開業、また同年6月24日には神戸市交通事業審議会が高速鉄道網(地下鉄)建設を答申している。市営地下鉄の初開業(西神線、名谷駅 - 新長田駅)は1977年3月13日、市電最後の日からちょうど6年後である。
※この「水害と戦災を乗り越えて」の解説は、「神戸市電」の解説の一部です。
「水害と戦災を乗り越えて」を含む「神戸市電」の記事については、「神戸市電」の概要を参照ください。
- 水害と戦災を乗り越えてのページへのリンク