水守三郎による異説
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脚本家の水守三郎(1905年〈明治38年〉 - 1973年〈昭和48年〉)は、事件当時ムーランルージュ新宿座で文芸部員を務めていた。水守は『人物往来』 昭和31年3月号掲載の「モダン作家と歌姫の心中」という記事で以下のように証言している。 ムーランルージュ新宿座に加入する前、松竹楽劇部に在籍していた時期の芳子は、その「ちょっと頽廃的な魅力」で少女たちよりむしろ男性のファンが多く、楽屋口で出待ちをする若い男たちもいた。芳子と中村は当時からの知り合いで、やがて2人は急速に親密な仲となった。そして2人がどこかのホテルに連れ立って泊まったという噂が松竹楽劇部重役の耳に入ったため、芳子は楽劇部を辞めざるを得なくなった。別の説ではその重役が芳子に気があって口説いたものの、失敗したところに中村との噂を聞きつけ、その腹いせと嫉妬で彼女を追放したともいう。 ムーランルージュ新宿座に芳子を紹介したのは、喜劇役者の石田守衛であった。劇場主の佐々木千里はかねてから芳子の評判を聞いていて、その容姿を含めて高い評価を与えて彼女を採用した。当時のムーランルージュ新宿座は10日替わりの公演を組んでいて、芳子の人気は公演ごとに上昇していった。劇場の文芸部では、やがて芝居も勉強させて、彼女をムーランルージュ新宿座ならではの花形スターに成長させようと期待を寄せていた。その矢先に情死事件が発生した。 水守は芳子の人柄について「純情型の心やさしい女」と評し、好意を寄せていた。彼の推測によれば、芳子が死を選んだ原因は、病気のために咽喉を痛めて歌手生命の喪失を懸念したことと、「病的な美しさ」の自らの舞台姿は今が最上で、やがて病み衰えて見る影もなくなるであろうという苦悩から来たものであった。さらに生来のメランコリックな性格が、彼女を死の道に赴かせたというが、水守自身が「自殺者自身よりほかにその真因を知ることは不可能なのだ」と綴っている。 そして中村について水守は「むしろ芳子にひきずられたのである」と評した。事件の数日前、水守は芳子が若い男と何やら語り合っているのを見かけた。思いつめた様子の2人の表情に水守は異様な印象を受けたが、その若い男こそ中村であった。芳子の死に対する熱い想いに引きずられて、中村はその道連れとなった。しかし芳子のみが死に、中村は生き残った。 中村のその後について水守は「世に心中の片割れくらい憐れなものはない」と評した。水守はその後も何度か、新宿の街をさまよい歩く中村を見かけた。かつての流行批評家の面影はなく、薄汚れた紺絣の着流し姿で、表情はうつろなものであったという。
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