佐々木千里とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 佐々木千里の意味・解説 

佐々木千里

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/16 16:47 UTC 版)

ささき せんり
佐々木 千里
本名 勝間田 兵吉
別名義 戸山 千里
緒方 勝(おがた すぐる)[1]
生年月日 (1891-06-28) 1891年6月28日
没年月日 (1961-05-15) 1961年5月15日(69歳没)
出生地 日本 静岡県
職業 ムーラン・ルージュ新宿座 主宰
ジャンル 軽演劇
活動期間 1920年前後 - 1948年
著名な家族 明日待子(養女)
テンプレートを表示

佐々木 千里(ささき せんり)は、静岡県出身で「ムーラン・ルージュ 新宿座」の創設者として知られた。出生名は勝間田 兵吉(かつまた へいきち)。浅草オペラ時代の芸名は戸山 千里(とやま せんり)で、筆名は緒方 勝(おがた すぐる)。

人物・来歴

1891年(明治24年)6月28日、静岡県御殿場で勝間田兵吉として生まれる[2]。1910年(明治43年)に軍楽隊養成所だった陸軍戸山学校(戸山音楽学校)を卒業。その際、年度の最優秀者に贈られる銀時計を授与された[3][注釈 1]

大正期の中頃、浅草公園六区で盛んだった浅草オペラを舞台に戸山千里の名でテノール歌手として活躍する。妻のきぬは美人揃いで人気を博した浅草のカフェー・広養軒が実家で、自身も店の看板娘として知られた存在[5][注釈 2]。佐々木は同じテノール歌手で当時人気を二分していた田谷力三と競り合ってきぬを射止めたとされる[7]。その後、演者から裏方に転身。妻の実家・佐々木家に婿入りして広養軒を経営しつつ、1930年(昭和5年)にはエノケンこと榎本健一の劇団「プペ・ダンサント」で知られる浅草の玉木座で支配人を務めた[8]

1931年(昭和6年)12月31日、40歳のとき、東京市淀橋区角筈[注釈 3]に小さいながらも劇場を建て、「ムーラン・ルージュ 新宿座」を旗揚げ。レビュー喜劇(軽演劇)を上演した。当初はあまり客が入らなかったが、明日待子が参加した頃から徐々に人気を得る。また小沢不二夫阿木翁助らの作家、有島一郎由利徹らの喜劇人を育成している[2]。ムーランルージュは、松竹林瑞祥(のちのジョイパック、現在のヒューマックスグループ会長)が経営したが、佐々木が還暦を迎えるころ、1951年(昭和26年)5月に閉館した[9]

第二次大戦中の1944年(昭和19年)、ムーラン・ルージュの名称は敵性語とされたため「作文館」と改名。翌1945年(昭和20年)2月には経営権及び劇場が佐々木から松竹の手に渡る。同年5月5月25日、劇場が空襲で焼失した[10]

戦後の1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院選挙に静岡の選挙区から出馬。結果は落選であったが、東京の選挙区から出馬した同姓同名の池袋の劇場主が当選し、勘違いした支援者から祝電が続々届いてまいったと佐々木は後に語っている。

ムーラン・ルージュの劇場があった場所に戦後小屋が建てられた。ここで元ムーランの劇作家・中江良夫が中心となり「赤い風車 新宿座」[注釈 4]が設立される。1946年(昭和21年)5月1日に初公演。客入りは上々であったが、挨拶料を支払えと押し掛けてきた朝鮮人の金やそれに呼応して暴れ出した同じく朝鮮の歌手・金山らによって解散[12]。「小議会」は1946年(昭和21年)10月1日から公演を開始するが、人件費や大道具の費用が嵩むなど経営上の困難が多く1947年(昭和22年)1月末に解散。僅か4ヶ月の短命であった。

その後は明日待子一座として地方巡業[13]。1948年(昭和23年)に北海道を公演して回った際は、札幌の興行主であり学生時代から待子のファンであった須貝富安が一行を歓待した。翌1949年(昭和24年)11月、待子は2つ年下の須貝と結婚。札幌に移り住んだ。

晩年の佐々木は千葉県船橋市[1]で暮らしたが、1955-1956年頃に愛妻・きぬを亡くしてからは病気がちとなる。1961年(昭和36年)2月、日本演劇協会より功労者として表彰[14]されると、同年5月15日にこの世を去った[2]。満69歳没。ムーラン・ルージュの出身者は佐々木の没後もラジオやテレビなど多方面で活躍した。

演じた人物

テレビドラマ


脚注

注釈

  1. ^ 戸山練兵場でトランペットを吹いたらその音が千里に響いたので、後に戸山千里という芸名を付けたとされる[4]
  2. ^ 観音劇場の前にあった広養軒は作家や文士のたまり場となっており、オーナーの一人娘で浅草小町と称されたきぬ(絹)目当ての客も多かった[6]
  3. ^ 後の東京都新宿区新宿3丁目36-16。
  4. ^ 戦後のどさくさの中、無関係の第三国人によって「ムーラン・ルージュ」の名称が商標登録され、使えなくなっていた為[11]

出典

  1. ^ a b 『文化人名録』(昭和34年版(8版))日本著作権協議会、著作者名簿 61頁。NDLJP:8797883/66 
  2. ^ a b c コトバンクサイト内の記事「佐々木千里」の記述を参照。
  3. ^ 山口常光 編『陸軍軍楽隊史:吹奏楽物語り』(改訂版)三青社出版部、1973年4月、478頁。NDLJP:12230228/248 
  4. ^ 『小説新潮』(19 (8)(254))新潮社、1965年8月、349頁。NDLJP:6074872/181 
  5. ^ 添田唖蝉坊『浅草底流記』近代生活社、1930年10月、114頁。NDLJP:1916565/71 
  6. ^ 水品春樹『舞台監督の仕事 (てすぴす叢書 第17)』未来社、1953年、28頁。NDLJP:2462885/19 
  7. ^ 村松道弥『おんぶまんだら:音楽・舞踊・楽器ジャーナリストの回想』芸術現代社、1979年10月。NDLJP:12432842/59 
  8. ^ 『現代日本 朝日人物事典』朝日新聞社、1990年12月、740頁。NDLJP:13215658/374 
  9. ^ 新宿大通商店街振興組合公式サイト内のコラム「ムーラン・ルージュ新宿座」の記述を参照。
  10. ^ 朝日新聞テーマ談話室 編『戦争:血と涙で綴った証言』 上巻、朝日ソノラマ、1987年7月、200頁。NDLJP:12227598/106 
  11. ^ 秋山邦晴、他『文化の仕掛人:現代文化の磁場と透視図』青土社、1985年10月、35頁。NDLJP:12418409/19 
  12. ^ 秋山邦晴、他『文化の仕掛人:現代文化の磁場と透視図』青土社、1985年10月、36-37頁。NDLJP:12418409/20 
  13. ^ 秋山邦晴、他『文化の仕掛人:現代文化の磁場と透視図』青土社、1985年10月、78頁。NDLJP:12418409/41 
  14. ^ 『毎日年鑑』(1962版)毎日新聞社、1961年、355頁。NDLJP:3034694/181 



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「佐々木千里」の関連用語

佐々木千里のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



佐々木千里のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの佐々木千里 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS