新宿ムーランの時代
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「ムーランルージュ新宿座」の記事における「新宿ムーランの時代」の解説
1931年(昭和6年)12月31日、東京府豊多摩郡淀橋町(現在の東京都新宿区新宿三丁目36-16、JR新宿駅東南口東側の「新宿国際会館ビル〈現・GLITTERS Shinjuku〉」のあたり)にオープンした。浅草公園六区の「浅草オペラ」時代(1917年 - 1923年)にテナー歌手、その後、玉木座の支配人をしていた佐々木千里が個人で開いた劇場である。定員は430人。 1931年オープン時には、龍胆寺雄、吉行エイスケ、楢崎勤を文芸部顧問に迎え、前カジノ・フォーリー文芸部長の島村竜三を文芸部長とした。レビュー・軽演劇など、色々なものを演じていた。当初は浅草で演じていた軽演劇の再現でしかなく経営も思わしくなかった。 1932年(昭和7年)12月12日、当時18歳のムーランの歌手・高輪芳子が、四谷区番衆町127(現在の新宿区新宿5丁目)の新宿園アパート2階14号で、雑誌『新青年』のレギュラー執筆者であった当時26歳の作家・中村進治郎とガス心中を図り、大々的に報道された。「ムーラン・ルージュ」の名が一躍知れ渡ることとなる。結局高輪は死去、中村は息を吹き返した。 そのころには、様々な俳優が出演することで、ムーラン独自のカラーの演劇を確立し、次第に評判を呼び満員になるほどの盛況ぶりとなっていた。往時のバラエティーショーを彷彿とさせる多彩な演目を量産する強行スケジュールをこなす中で、スターが生まれた。帝国キネマ演芸で映画俳優「結城重三郎」として活躍後、ムーラン文芸部に入った作家・小崎政房はムーランと並行して、巣鴨撮影所を持つ大都映画の剣戟俳優「松山宗三郎」としても活躍した。 1933年(昭和8年)初頭から1935年(昭和10年)までが、ムーランの全盛期であった。パリにあるのはキャバレーであるが、新宿座は劇場である。入口には赤い風車が回っており、当時の新宿の街の名物にもなっていた。当時山の手を代表する歓楽街になりつつあった、「新宿」の芸能文化に触れる上で欠かせない存在である。ムーラン・ルージュ出身の有名な俳優も多い。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災による浅草壊滅と東東京からの人口の流入を背景に登場した。早稲田大学の学生を始め、角筈近辺に住んでいた文化人にも親しまれていた。
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