水害による河川付け替え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 03:17 UTC 版)
「天神川 (京都市)」の記事における「水害による河川付け替え」の解説
1935年(昭和10年)6月の京都水害(「鴨川水害」とも呼ばれるが、浸水面積は天神川、桂川沿いのほうが広い)で被災後、花園より南側は現在のように付け替えられた。 水害以前は天神川は丸太町通以南では天井川となって蛇行しながら西院から西京極の東側から吉祥院へと流れ、御室川は宇多川を合流部から天井川となって南下、途中西高瀬川と立体交差して西京極をへて西中付近で桂川へと注いでいた。それが京都水害で両河川とも沿川に甚大な被害が発生した。特に天神川沿川には人家が多く、河川の拡幅が困難なことから、御室川への付け替え、掘込河道化が決定したが着工されず紙屋川周辺住民が昭和13年9月に勤労奉仕で着工、昭和15年に本格着工したが戦時下で計画大部分は中断した。昭和26年7月の水害で丸太町通りとの交差部付近で決壊して西の京地区が浸水した。御室川では山陰本線下流の5ヶ所で決壊、沿岸の常盤・太秦地区が浸水した。さらに有栖川、瀬戸川が氾濫し、これらの氾濫は合流し東梅津から南へ山内・西院・西京極を水没させた。被害は床上浸水1473戸・床下浸水5177戸を出した。被災後に再度着工され昭和29-30年にかけての工事で御室川は石積み護岸のかみそり堤防となった。また昭和33年には支流の紙屋川に砂防堰堤が造られた。
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