気比丸遭難事故とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 気比丸遭難事故の意味・解説 

気比丸遭難事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 23:13 UTC 版)

気比丸」の記事における「気比丸遭難事故」の解説

1941年昭和16年6月独ソ戦が始まると、ソ連Uボート対策のためとしてウラジオストクナホトカなど沿海州重要港湾周辺4箇所機雷敷設し危険水域であると宣言した。そして、ソ連危険水域宣言からすぐに、朝鮮半島東岸など日本海各地ソ連製機雷漂着するようになった同年10月末までに57個もの漂流機雷確認され、5件の爆発事故発生して朝鮮籍小型貨物船1隻・漁船1隻が沈没17人が死亡する被害生じた防御用の繋維式機雷の支索が断線して流出してしまった浮流機雷と見られるが、日本側では、ソ連軍ドイツ同盟国ある日本の商船攻撃するため故意浮遊機雷放流しているとの説もあった。 日本政府ソ連大使館抗議するとともに朝鮮半島東岸鎮海要港部砲艦2隻・監視艇5隻、北海道樺太西岸大湊要港部特務艦1隻・哨戒艇1隻を出動させて機雷監視任務に当たらせた。日本海汽船など船会社各社見張り避難訓練などの態勢強化したこうした緊張下の1941年11月5日午後2時20分頃、「気比丸」は清津から敦賀向けて出航した乗船者乗客358人(一等船客15人、二等船客61人、三等船客281人)と乗員89であった次第に波が高まって機雷視認困難な天候変わったため、「気比丸」は速力を12.5ノットから10ノット減速して警戒しながら航行した同日午後10時14分、「気比丸」は清津港東南約160kmの北緯4040東経13100分 / 北緯40.667度 東経131.000度 / 40.667; 131.000付近航行中左舷船首浮流機雷接触して爆発した。この触雷により、「気比丸」は1番船倉に浸水して中甲板左舷三等船室爆発により壊滅状態となった船長はただちに機関停止させた上、総員退船を発令した。約1時間後の沈没まで救命ボート10全て救命筏順調に発進し脱出した生存者救助駆けつけ日本艦船により約10時間後に収容された。11月15日まで捜索活動続けられたが、爆発直撃受けた三等船室乗客中心に乗客136人・乗員20人が死亡または行方不明となったこの中には、後に「若き哲学の手記」として刊行され日記書いた京都大学学生の弘津正二含まれる。 「気比丸」の触雷遭難明らかになると、日本国内では自衛権発動主張されるなど世論盛り上がり同年12月6日には日本の外務省駐日ソ連大使招いて強く抗議し善処求めた。しかし、同年12月8日太平洋戦争勃発して日本第二次世界大戦参戦すると、日本とソ連の間は中立状態が続いていたものの、「気比丸遭難事故問題うやむやとなってしまった。 なお、「気比丸」の遭難影響で、同じ日本海航路新潟北鮮線も1941年12月から1942年春まで運休となった

※この「気比丸遭難事故」の解説は、「気比丸」の解説の一部です。
「気比丸遭難事故」を含む「気比丸」の記事については、「気比丸」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「気比丸遭難事故」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

気比丸遭難事故のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



気比丸遭難事故のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの気比丸 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS