気比丸遭難事故
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1941年(昭和16年)6月に独ソ戦が始まると、ソ連はUボート対策のためとしてウラジオストクやナホトカなど沿海州の重要港湾周辺4箇所に機雷を敷設し、危険水域であると宣言した。そして、ソ連の危険水域宣言からすぐに、朝鮮半島東岸など日本海各地にソ連製の機雷が漂着するようになった。同年10月末までに57個もの漂流機雷が確認され、5件の爆発事故が発生して朝鮮籍の小型貨物船1隻・漁船1隻が沈没、17人が死亡する被害を生じた。防御用の繋維式機雷の支索が断線して流出してしまった浮流機雷と見られるが、日本側では、ソ連軍がドイツの同盟国である日本の商船を攻撃するため故意に浮遊機雷を放流しているとの説もあった。 日本政府はソ連大使館に抗議するとともに、朝鮮半島東岸に鎮海要港部の砲艦2隻・監視艇5隻、北海道・樺太西岸に大湊要港部の特務艦1隻・哨戒艇1隻を出動させて機雷監視任務に当たらせた。日本海汽船など船会社各社も見張りや避難訓練などの態勢を強化した。 こうした緊張下の1941年11月5日午後2時20分頃、「気比丸」は清津から敦賀に向けて出航した。乗船者は乗客358人(一等船客15人、二等船客61人、三等船客281人)と乗員89人であった。次第に波が高まって機雷視認が困難な天候に変わったため、「気比丸」は速力を12.5ノットから10ノットに減速して警戒しながら航行した。 同日午後10時14分、「気比丸」は清津港沖東南約160kmの北緯40度40分 東経131度00分 / 北緯40.667度 東経131.000度 / 40.667; 131.000付近を航行中、左舷船首に浮流機雷が接触して爆発した。この触雷により、「気比丸」は1番船倉に浸水して、中甲板左舷の三等船室が爆発により壊滅状態となった。船長はただちに機関を停止させた上、総員退船を発令した。約1時間後の沈没までに救命ボート10隻全てと救命筏は順調に発進し、脱出した生存者は救助に駆けつけた日本艦船により約10時間後に収容された。11月15日まで捜索活動が続けられたが、爆発の直撃を受けた三等船室の乗客を中心に乗客136人・乗員20人が死亡または行方不明となった。この中には、後に「若き哲学徒の手記」として刊行された日記を書いた京都大学学生の弘津正二も含まれる。 「気比丸」の触雷遭難が明らかになると、日本国内では自衛権の発動が主張されるなど世論が盛り上がり、同年12月6日には日本の外務省が駐日ソ連大使を招いて強く抗議し、善処を求めた。しかし、同年12月8日に太平洋戦争が勃発して日本も第二次世界大戦に参戦すると、日本とソ連の間は中立状態が続いていたものの、「気比丸」遭難事故の問題はうやむやとなってしまった。 なお、「気比丸」の遭難の影響で、同じ日本海航路の新潟北鮮線も1941年12月から1942年春まで運休となった。
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