白鳳ビル
(森下グループ から転送)
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本社
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種類 | 株式会社 |
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設立 | 1989年9月27日 |
業種 | 不動産・アミューズメント事業 |
法人番号 | 9011102006611 |
事業内容 | DVD鑑賞(試写)店のチェーン運営等 |
代表者 | 中川一博 |
資本金 | 1千万円 |
売上高 | 143億円 |
総資産 | 395億8682万5000円 |
従業員数 | 1,300名 |
関係する人物 | 森下景一 |
外部リンク | https://hakuhou-b.com/ |

株式会社白鳳ビルとは、1989年創業の東京都新宿区新宿に本社を置くDVDレンタル複合カフェなどを運営する企業である。不動産、飲食ビジネスも営む、俗にいう森下グループの基幹企業[1]。
都市部を中心にロードサイドへも出店し九州は熊本県から北は北海道まで全国で展開している。2019年3月18日に有限会社新宿ソフトから商号変更。同日に新宿区新宿5丁目10番6号から新宿区新宿5丁目9番24号に移転。
概要
テレフォンクラブを創業



新宿ソフト社長、森下景一が1980年代の新宿・歌舞伎町でテレクラ・リンリンハウスを創業[2][3]。当時のマスメディアでも大きく紹介された。当時の競合店では1時間3,000円が相場であった利用料金を、リンリンハウスチェーンは1時間800円に値下げして低価格を前面に出した価格政策を打ち出し、利用客を取り込むことに成功した。
このビジネス形式を日本各地のテレクラ店舗を出店に際して応用し、各地の歓楽街にネオンサイン看板を派手に施された店舗の出店を続けた。「入会金無料、1時間800円」のフレーズをエンドレステープで繰り返し店舗入口のスピーカーから大音量で流したり駅前でのポケットティッシュ配布など、独特の宣伝・運営には繁華街の風紀の乱れ、景観を損ねるという声もあった。このビジネス方式は現在同社グループ傘下のインターネットカフェ・マンボーの低価格料金設定・チェーンの運営展開にも応用されている。
多角経営
その後新事業としてダイヤルQ2事業、ビジネスホテル、ラブホテルなどのホテル事業などでグループ規模を拡大。系列グループの統括会社として、1989年に有限会社新宿ソフトを設立。2000年以降からはインターネットカフェチェーン事業の推進、法規制で斜陽事業となったテレクラに代わり、ビデオボックス事業への転換など進める。現在は主にテレクラやホテル・ビデオボックスなどの店舗事業と、2ショットダイヤルや出会い系サイトなどの通信・ネット事業、不動産業等多角的経営を行っている。
DVD鑑賞店(関西ではDVD試写室)を全国に200店舗を展開する。2010年頃までは「ビデオボックス」「DVDボックス」「個室ビデオ」とも呼ばれていたが、事実上店舗でのレンタルはDVD、Blu-ray 等のデジタルソフトのみの取り扱いとなった為、現在では「DVD鑑賞」「DVD試写室」と公共的な報道等では通称となる。
主な関連グループ
- DVD鑑賞(試写室) - 花太郎・金太郎 - 株式会社大倉ビル
- インターネットカフェ・不動産業 - 株式会社マンボー(森下不動産)
- テレクラ - リンリンハウス、バレンタインコール
- 出会い系サイト - 株式会社マックス(PCMAX)
- チャットレディ - 株式会社エムジー(ポケットワーク)
- ソープランド - 有限会社浜甚、株式会社ハウジングジャパン(マリン、チューリップ等屋号多数)
- 総務・人事代行業務 - 株式会社ピュア
- 飲食・観光 - 株式会社ロボットレストラン
- ホテル事業 - 株式会社 ワタナベ商事
- 池袋グランドホテル/池袋セントラルホテル/池袋パークサイドホテル、その他池袋・新宿・渋谷・錦糸町等繁華街を中心に多数
その他
マドンナの通算11作目のアルバムからのシングルカット曲「ジャンプ」(2006年)のプロモーションビデオクリップ・新宿ロケシーンに新宿ソフトのチェーン店舗が利用された。
脚注・出典
- ^ “歌舞伎町の風俗王が開いた「ナチス礼賛」歌謡ショー | Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌]”. Smart FLASH[光文社週刊誌]スマフラ/スマートフラッシュ (2020年8月19日). 2021年3月20日閲覧。
- ^ “安息の地か、魔窟か ネットカフェの危うい最新事情 | 企業戦略”. 東洋経済オンライン (2007年5月30日). 2021年3月20日閲覧。
- ^ “Robot Restaurant founder hosted Nazi-themed event in '17” (英語). TokyoReporter (2020年8月20日). 2021年3月20日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 有限会社 新宿ソフト - ウェイバックマシン(2007年5月1日アーカイブ分)(公式サイト、2007年閉鎖)
- 株式会社白鳳ビル
- マリングループ
森下グループ
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「BIZEN中南米美術館」の記事における「森下グループ」の解説
1904年(明治37年)10月、森下精一は岡山県和気郡日生村(現・備前市日生町)に生まれた。父親は雑貨販売と漁網製造を行っており、精一が高等小学校を卒業すると、父親とともに関西や九州でも漁網の売り込みを手伝っている。25歳だった1929年(昭和4年)に父親の跡を継いで独立。東洋麻糸紡績(のちの東洋繊維、現在のトスコ)の漁網用ラミーの特約販売店となると、西日本から朝鮮半島にまで販路を拡大し、漁網用ラミーではシェア80%を占めた。太平洋戦争中には大砲や戦車を覆う擬装網なども手掛け、戦後には動力編網機を導入して製造能力を拡大した。 1947年(昭和22年)に有限会社森下製網所を設立。1948年(昭和23年)に香川経済専門学校(現・香川大学経済学部)を卒業した長男の森下一之介が入社すると、東洋レーヨン(現・東レ)が開発した新合成繊維のナイロンの製造を開始。ナイロン製の漁網は従来の漁網の十数倍の耐久力があり、日本国外の漁網市場も席巻した。1956年(昭和31年)には有限会社から株式会社に変更している。1957年(昭和32年)にはラミネート製輸送袋などを製造する森下化学工業を設立し、その他にもさまざまな分野で20社以上の企業を設立して、レジャー用品、ゴルフ練習場、フェリー運航、ガソリンスタンド経営などに手を広げた。1960年(昭和35年)頃の売上高は国外6割・国内4割の比率であり、「漁網の森下」と呼ばれていた。精一は森下グループの総帥として各企業を統括し、和気郡日生町の町議会議員(十数年間)、日生信用金庫理事長、浄土真宗西念寺総代長も務めた。精一は社員にも得意先にも謙虚であり続け、毎朝一番に出社して社員と挨拶を交わした。 1978年(昭和53年)には森下精一の長男である一之介が森下魚網製造(製造)と森下製網所(販売)の社長に、次男である行雄が森下化学工業の社長に就任。精一は同年に亡くなった。一之介は森下グループの総帥を務める傍らで、岡山県教育委員(1984年-1998年)、岡山県教育委員長(1998年-)、日生信用金庫理事長などを務めた。漁網の需要が落ち込んだため、ゴルフ練習場ネットなど漁網以外の品目にシフトした。 1996年(平成8年)には森下一之介の次男である矢須之が森下グループ総帥に就任。この頃の森下製網所は売上高50億円・社員80人であり、森下グループ全体では売上高130億円・社員1250人だった。グループは18企業・1財団法人からなり、タイ、インドネシア、中国に現地法人を持っていた。しかし、ゴルフ練習場への過大投資などが理由で経営が行き詰まり、2004年(平成16年)にはグループ全体の売上高が113億円まで落ち込んだ。ゴルフ関連事業や不動産事業から撤退、森下グループ14社を森下製網所と森下化学工業の2社に集約し、社長も森下家以外の人間に交代した。森下グループ発祥の地である本社工場を売却し拠点を岡山県瀬戸内市長船町磯上に移す。また、日生と小豆島を結ぶ瀬戸内観光汽船は両備グループに売却した。2014年、森下株式会社と森下化学工業株式会社はレンゴー子会社のマルソルホールディングス株式会社に吸収合併され、法人格としては解散した。ただしマンソルホールディングスが同日に「森下株式会社」と改称し、「森下」のブランドは存続した。2015年、上記「森下株式会社」は、同じくレンゴー子会社の日本マタイ株式会社に吸収合併され、日本マタイの岡山事業所・岡山工場(岡山県瀬戸内市長船町磯上)となった。
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