根本監督時代
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「福岡ソフトバンクホークス」の記事における「根本監督時代」の解説
1993年 日本初の開閉式屋根を持つドーム球場として福岡ドームが完成すると同時に、ユニフォームのデザインも変更された。ブーマー、門田の抜けた穴は大きく、その上、福岡ドームが当時の日本一広い球場であるが故に、ホームゲーム60試合で僅か18本塁打しか打てず、投手陣も平和台時代の惨状が改善されないまま最下位に転落。これで南海時代の1978年から、この年まで16年連続シーズン負け越しで、これはスワローズ・アトムズが記録した15年連続(1962年 - 1976年)を更新した日本プロ野球ワースト記録である。同年11月に佐々木・村田・橋本武広とのトレードで、西武から秋山幸二・渡辺智男・内山智之を獲得。また、この年のドラフトから逆指名制度が導入され、渡辺秀一・小久保裕紀を逆指名で獲得している。 1994年 福岡に移転後初めて優勝争いに加わった。阪神よりFA移籍した松永浩美、西武から移籍した秋山、助っ人のケビン・ライマーとブライアン・トラックスラーが加わり、既存戦力のカズ山本・藤本博史・吉永幸一郎・浜名千広と共に重量打線を構成した。投手陣では村田の抜けた穴を若田部・吉田豊彦・下柳剛が埋め、ルーキーの渡辺秀一が新人王を獲得する等奮闘したが、渡辺智男・内山が期待に応えられず敗戦が大きく先行してしまい、更にエース吉田豊彦が9月10月に1勝もできず、同率2位のオリックス・近鉄にゲーム差なしの勝率僅か6毛差で4位となり、Aクラス入りを逃した。勝敗数は69勝60敗1分で、南海時代の1977年以来17年ぶりに勝ち越した。同年オフ、ドラフト会議では駒澤大学への進学が内定していた城島健司を1位指名した他、FAで西武から石毛宏典・工藤公康が移籍した。根本が監督を勇退し、球団専務職に専念。王貞治が監督に就任した。
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根本監督時代(クラウンライターライオンズ時代)
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「埼玉西武ライオンズ」の記事における「根本監督時代(クラウンライターライオンズ時代)」の解説
1978年 真弓明信、立花義家など若手が台頭しレギュラー定着、中日から移籍のウィリー・デービスも打率.293と活躍したものの、23勝した東尾修以外の投手陣の駒不足が露呈。前期は4位。後期は開幕から10試合で0勝7敗3分けで、その後は一時5割まで到達するものの、優勝争いに加わることはなかったが、通年では2年連続の最下位を免れ、5位。 10月12日、廣済堂クラウンがライオンズ球団の売却・埼玉県所沢市への移転を発表。西武鉄道グループの国土計画の堤義明社長(当時)がクラウンライターライオンズ球団を買い取り、西武ライオンズ(Seibu Lions)となり、資金力も増して強化に乗り出す。堤の媒酌人福田赳夫が名誉会長就任。堤は買収発表の記者会見の席で、球団の買収話は数日前にプロ野球コミッショナーらの訪問を受け、短期間のうちに決まったと語っている。 10月17日、球団事務所を東京都豊島区東池袋のサンシャイン60内に開設。10月25日、運営会社の商号を福岡野球株式会社から、現在の「株式会社西武ライオンズ」に変更。12月5日、ペットマーク・シンボルカラーの発表。12月18日当時建設中であった新本拠地球場の名前が西武ライオンズ球場に決定。堤は新球団の目玉にロッテから野村克也と山崎裕之、阪神から田淵幸一を獲得。川上哲治の社長就任要請やクラウン時代の77年ドラフトで指名し、交渉権を得た江川卓入団にも執念を燃やしたが、失敗により、読売グループとの関係が悪化した(江川事件)。
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根本監督時代(西武ライオンズ時代)
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「埼玉西武ライオンズ」の記事における「根本監督時代(西武ライオンズ時代)」の解説
1979年 西武ライオンズとして最初のシーズンは春季キャンプでの調整失敗もあり、前期は開幕から2引き分けを挟み、12連敗(1955年のトンボユニオンズと並ぶ開幕戦からの連敗記録のNPB歴代ワーストタイ)を喫するなど最下位、後期も5位で通算成績も最下位であった。しかし、斬新な球場や「がんばれライオンズ」(TBSで関東一円で放送)など、ミニ番組を放送してPRに努めた結果観客動員数は前年の77万人から136万人と75%も増えパ・リーグトップに躍り出た。 1980年 前期最下位、スティーブ・オンティベロスが加入し、打線が強化された後期は9月に首位に立つが終盤6連敗し、後期優勝を逃し、結局4位となった。通算でも4位。野村克也が引退する。またこの年から2020年まで40年のあいだ一度も最下位を経験しなかった。 1981年 前期は終盤まで優勝を争うも、ロッテに敗れ、2位に終わる。だが、後期は失速して5位に沈み、通算では4位。ドラフト1位の石毛宏典が新人王。このシーズン限りで根本陸夫が監督を退任し、以降は管理部長としてチーム運営に携わる。
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