東総遊歴と幽界研究
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篤胤は、私塾兼書斎である「真菅乃屋」から自己の著作を刊行しようと努めてきたが、その著述活動を支えるような有力な領主の庇護はなく、必ずしも裕福な門弟に恵まれていたわけではなかった。当初は江戸在住の武士や町人が門人・支持者となって後援したのにとどまっていた。この「真菅乃屋」のサークルを江戸以外の地に拡大しなければ自分の学問はひろまらない、このように考えた篤胤が巡遊先として最初に選んだのは、下総・上総の地だった。文化13年(1816年)に篤胤は初めてこの地域をまわった。 篤胤は文化13年4月に江戸を出て、船橋・神崎・香取・鹿島・銚子・飯岡と利根川下流地域をめぐり、途中、鹿島神宮・香取神宮及び息栖神社に詣でている。この旅で「天之石笛」という霊石を得たことにちなみ、篤胤は家号を「伊吹乃屋(気吹舎)」と改め、「大角」とも名乗るようになった。翌文化14年(1817年)には、この旅の顛末をしるした『天石笛之記』が書かれている。 文政元年(1818年)11月18日、43歳となった篤胤は、武蔵国越谷在住の門人山崎篤利の養女と再婚した。新しい妻も先妻の名「織瀬」を名乗った。山崎篤利は、越谷の油商人で篤胤の出版事業を経済的に援助した人物である。この頃、篤胤は越谷の久伊豆神社境内に草庵「松声庵」をむすんでいるが、これは篤利たち越谷の門人たちの援助によるものであった。この年、『古史成文』を刊行、篤胤のライフワークとなる『古史伝』の著述にとりかかった。 文政2年(1819年)、2度目の東総遊歴をおこなった。最初の訪問地以外にも八日市場・富田・東金・本納・一の宮などを巡り、篤胤はこの遊歴の中で、のちに著作としてまとめられることとなる『玉襷(たまだすき)』や『古道大意』を講釈し、門人獲得を精力的におこなった。農政家・国学者として知られる宮負定雄の父定賢はじめ多くの豪農・神職がこのとき入門している(定雄自身も文政9年に入門)。 この時期の篤胤は、平田学の核心となる諸書の著述や刊行を進めると同時に幽界研究に大きな関心を払った。幽界に往来したと称する少年や別人に生まれ変わったという者の言葉を信じ、そこから直接幽界の事情を著述している。 文政3年(1820年)秋、江戸では天狗小僧寅吉の出現が話題となった。発端は江戸の豪商で随筆家でもある山崎美成のもとに寅吉が寄食したことにある。寅吉によれば、彼は神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという。篤胤はかねてから幽冥界に強い関心をいだいていたため、山崎の家を訪問し、この天狗少年を養子として迎え入れた。篤胤は、寅吉から聞き出した幽冥界のようすを、文政5年(1822年)、『仙境異聞』として出版している。これにつづく『勝五郎再生記聞』(文政6年刊行)は、死んで生まれ変わったという武蔵国多摩郡の農民小谷田勝五郎からの聞き書きである。幽なる世界についての考究には、他に、『幽郷眞語』『古今妖魅考』『稲生物怪録』などがあり、妖怪俗談を集めた『新鬼人論』(文政3年成立)では民俗学的方向を示し、のちに柳田國男や折口信夫らの継承するところとなった。 文政5年(1822年)、『ひとりごと』を著して、全国の神官に支配的な影響力をもつ吉田家に接近するため、かつて『俗神道大意』で痛罵した吉田家を弁護した。吉田家と敵対関係にある神祇伯白川家(白川伯王家)に接近したこともある。 文政6年(1823年)、かねてより学問に専心したいとして備中松山藩主板倉氏に対し永の暇を求めていたが、それが聞き入れられ、松山藩を辞している。こののち、篤胤は尾張藩に接近し、一時、わずかな扶持をあたえられたこともあったが、晩年にはそれを召し上げられている。
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