東京進出、スター歌手へ
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「新橋喜代三」の記事における「東京進出、スター歌手へ」の解説
同じ年の8月1日、東京の日本橋三越で行なわれた鹿児島物産展のアトラクションに出演するため上京した喜代治は、アトラクション出演の翌日8月2日、中山の紹介によりビクターで『小原良節』『はんや節』『よさこい節』『三下り』の4曲をレコーディングした。この上京の際、同郷人で貴族院議員、財界の重鎮でもあった樺山資英、後に飯野海運社長となる俣野健輔から新橋金田中での宴席に呼ばれ、その席で披露した芸が好評を博し、東京への進出を勧められた。それを中山に話したところ大いに賛同を得て喜代治は上京を決意する。 鹿児島へ戻った喜代治は早速上京の準備を始める。当時世話になっていた旦那に東京行きの決意を伝えて許しを得ると、両親と家族を説得、俣野らに上京後の所属先を新橋で探してもらうよう連絡している。すぐに電報によって所属先決定の知らせを受けた喜代治は準備のために上京。新橋の置屋「金三升」へ所属する事を決め、その夜には中山と会って上京決定の報告をしている。 上京の予定は満州事変の影響で遅れたが、地元有志による10日間に亘る歓送会を終え、1931年(昭和6年)10月22日、鹿児島商工会議所会頭、料亭関係者、芸妓組合50人以上の見送りを受けて上京。 こうして喜代治は正式に新橋に所属する事となり、その際に先輩芸者に読み方が同じの喜代次がいたため、名を喜代三と改める。上京後すぐに試験を受けて合格すると、お披露目は11月1日に決定する。 その美貌と優れた芸がたちまち評判となり、上杉愼吉、大倉喜七郎、松本學、橋本欣五郎、中島健蔵、杉山平助など、政財界をはじめとする当時の名士の座敷を勤めた。新橋に移ってからも宴席では鹿児島民謡を中心に九州民謡を披露し好評を得た。 1932年(昭和7年)7月、新橋の置屋の看板を譲りたいという話があり、中山の出資を得て2,500円で取得。「喜代之家」として届け出て営業を始めた。秋にはポリドールの専属となり、新橋喜代三の名で流行歌『わしゃ知らぬ』を吹込み、1933年(昭和8年)6月に発売。 しかし、芸者と流行歌手の兼業を快く思わなかった新橋の先輩芸者らからレコード会社の専属とステージでの活動を止めるよう咎められて対立するようになり、市村羽左衛門らも仲裁に入ったが決裂。同じ新橋の烏森花柳界へ移籍し、芸苗字「新橋」を守る。 1934年(昭和9年)1月、『鹿児島小原良節』(伴奏は和洋合奏で、編曲は山田榮一が担当。カップリングは同じく和洋合奏の伴奏で篠原正雄編曲による『鹿児島三下り』)を出し大ヒット。便乗した他社からも次々に『鹿児島小原良節』のレコードが発売されるほどのブームとなった。翌年には『明治一代女』もヒットした。この年には弟二人を相次いで亡くしている。 この間、中山とは既に愛人関係となっており、熱海や箱根仙石原の別荘で逢瀬を重ねながらも、中山の依頼で敏子夫人に三味線を教え、喜代三は中山から発声のレッスンを受けるため中山家に出入りしていた。中山は喜代三を独占したいがために引退を勧めたこともあったが、芸能界に未練のあった喜代三はそれを拒否。そのままの関係が続いた。 1935年(昭和10年)、日活の山中貞雄監督の代表的な映画『丹下左膳余話 百萬両の壺』でヒロインお藤を演じるなど幅広い活躍をみせた。 1936年(昭和11年)10月15日、かねてより療養中であった中山夫人の敏子が45歳の若さで亡くなった。
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