東京進出と経営権争い
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1957年(昭和32年)5月25日には、有富光門の主導により、読売新聞が有楽町に建設した読売会館に東京店(有楽町そごう)を開店、東京への進出を果たした。しかし、この東京店は有富が読売新聞社主の正力松太郎と一坪当たり月額4,000円という高額の定額家賃の契約を結んでいたため、月商約3億円に対し約7,000坪で約2,800万円の家賃は、当時業界の常識とされていた売上高の約3%から5%を大きく上回って採算が合わず、業績の足を引っ張る結果となった。 「読売会館#有楽町そごう」も参照 このため、翌1958年(昭和33年)4月、関西財界の顔役で日本繊維工業社長であった坂内義雄を社長に迎え、板谷宮吉の縁戚とされる当時日本興業銀行(現:みずほ銀行)から特別調査室付考査役であった水島廣雄が副社長として就任、メインバンクで大株主で大口債権者である大和銀行(現:りそな銀行)から常務であった若菜三良が同じく副社長に就任し、ともに経営再建に取り組むことになった。 ところが、1960年(昭和35年)11月26日に坂内義雄社長が急逝。当時慣例化していた大和銀行と野村証券、山一證券、板谷宮吉、住友正雄で構成される「5者会」に諮ることなく、同年12月23日の取締会において大和銀行の意向により同行出身の若菜三良が副社長から社長に就任したため、5者会を構成する他者が反発し、経営権を巡って抗争が生じることになった。この経営権を巡る争いは大和銀行が公正取引委員会に提訴される事態に発展し、翌1961年(昭和36年)10月26日にアサヒビール社長山本爲三郎の仲介でようやく終息をみた。 この経営権争奪戦の解決を受けて、1962年(昭和37年)1月30日に増資を決議して同年6月1日に資本金10億円へ増資し、同年4月26日に水島廣雄が副社長から社長に就任した。 「水島廣雄」も参照
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