東京進出と経営権争いとは? わかりやすく解説

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東京進出と経営権争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:11 UTC 版)

「そごう」の記事における「東京進出と経営権争い」の解説

1957年昭和32年5月25日には、有富光門の主導により、読売新聞有楽町建設した読売会館東京店有楽町そごう)を開店東京へ進出果たした。しかし、この東京店有富読売新聞社主の正力松太郎一坪当たり月額4,000円という高額定額家賃契約結んでいたため、月商約3億円に対し約7,000坪で約2,800万円家賃は、当時業界常識とされていた売上高の約3%から5%を大きく上回って採算合わず業績足を引っ張る結果となった。 「読売会館#有楽町そごう」も参照 このため、翌1958年昭和33年4月関西財界の顔役で日本繊維工業社長であった坂内義雄を社長に迎え板谷宮吉縁戚とされる当時日本興業銀行(現:みずほ銀行)から特別調査室付考査であった水島廣雄副社長として就任メインバンク大株主大口債権者である大和銀行(現:りそな銀行)から常務であった若菜三良同じく副社長就任し、ともに経営再建取り組むことになった。 ところが、1960年昭和35年11月26日坂内義雄社長急逝当時慣例化していた大和銀行野村証券山一證券板谷宮吉住友正雄で構成される「5者会」に諮ることなく同年12月23日取締会において大和銀行意向により同行出身若菜三良副社長から社長に就任したため、5者会を構成する他者反発し経営権巡って抗争生じることになった。この経営権を巡る争い大和銀行公正取引委員会提訴され事態発展し、翌1961年昭和36年10月26日アサヒビール社長山本爲三郎仲介でようやく終息をみた。 この経営権争奪戦解決受けて1962年昭和37年1月30日増資決議し同年6月1日資本金10億円増資し同年4月26日水島廣雄副社長から社長に就任した。 「水島廣雄」も参照

※この「東京進出と経営権争い」の解説は、「そごう」の解説の一部です。
「東京進出と経営権争い」を含む「そごう」の記事については、「そごう」の概要を参照ください。

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