東京進出の経緯
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「東京電力 (1925-1928)」の記事における「東京進出の経緯」の解説
前身2社のうち、先に東京進出を果たしたのは群馬電力であった。同社は当初から東京方面への送電を想定しており、東京方面と発電所周辺に供給しつつ発生電力の過半を京浜電気鉄道へ供給する計画を立てていた。東京・横浜間の電気鉄道を営む京浜電気鉄道は群馬電力と同様安田財閥系の企業であり、電力供給を受けるのを前提に群馬電力設立時からその大株主であった。役員も一部重複しており、群馬電力の役員に名を連ねる青木正太郎・小倉鎮之助・宮口竹雄は京浜電気鉄道の役員でもある。この京浜電気鉄道の事業とは別に、群馬電力は1920年2月6日付で電気供給事業の許可を受け、神奈川県橘樹郡川崎町(現・川崎市)ほか5村に電力供給区域を設定した。 1922年7月4日、群馬電力は京浜電気鉄道との間で、同社が兼営する電灯・電力供給事業を譲り受けるという事業買収契約を締結した。この事業は京浜電気鉄道が鉄道沿線の東京府荏原郡大森町・蒲田町や神奈川県橘樹郡川崎町・鶴見町など計21町村にて経営していた事業で、その開業は1901年(明治34年)にさかのぼる。このうち荏原郡側全域と橘樹郡側の一部は東京電灯の供給区域と重複しており、従来供給用電力を購入していた桂川電力が1922年(大正11年)2月に東京電灯へ吸収されると電力の購入先と供給が競合する状態になった。鉄道事業への投資集中もあって京浜電気鉄道は供給事業の東京電灯への譲渡を一旦決定したが、これを安田財閥などの介在のため覆し群馬電力への譲渡に転換した。譲渡価格は東京電灯との契約価格より50万円高い550万円である。方針転換について一部株主・役員から強硬な反対運動があったものの、翌1923年(大正12年)5月1日付で事業譲渡が完了した。この間の1922年12月、金井発電所の運転開始を受けて群馬電力は開業している。 一方早川電力は、日英水力電気の事業権利を継承することによって東京方面での供給区域を獲得した。この日英水力電気というのは1906年(明治39年)に計画された電力会社で、日英同盟の交誼から日本とイギリスの提携による大井川の共同開発を目論んだが実現せず、日本側が設立した先述の日英水電という別会社によって計画の一部が完成するに留まっていた。日英水力電気は大井川水利権のほか東京市内や付近主要町村への電力供給権も保持しており、早川電力では1921年(大正10年)7月に日英水力電気株式会社発起人よりこれら水利権・電力供給権を譲り受けた。前年の日英水電合併が日英水力電気からの供給権買収の前提であったという。 かくして東京方面への足がかりを得た早川電力は、早川における榑坪発電所(後の早川第一発電所)と静岡県下および東京方面への送変電設備建設を第一期工事とし、事業に着手。1923年(大正12年)6月、このうち発電所と静岡県下の送変電設備を完成させ、7月中旬より送電を開始した。残る東京方面への送変電設備は、榑坪発電所から川崎(神奈川県)および東京郊外の戸越に設置する変電所まで約140マイルの66キロボルト (kV) 送電線を架設するという計画で同年10月の完成を目指したが、9月1日に関東大震災が発生して行き詰った。
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