本文の内容と出版
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/14 17:19 UTC 版)
ストウは活動的なままであり、マンダリンで冬を過ごす間に講演会に出席し、著述を行い、度々旅行し、小説を幾つか発行した。その出版者であるJ・R・オズグッドに新たな小説を約束していたが、その代わりにフロリダに関する一連の記事と日々の生活についてニューイングランドの親戚に宛てた手紙を整理した。それらの幾つかは弟のヘンリー・ウォード・ビーチャーが創刊したニューイングランドの地方紙「クリスチャン・ユニオン」に初出掲載された。『ヤシの葉』は全部で20の章からなり、ストウの語る相手によってその文調を変えていた。「フロリダでの土地の購入」、「傷病兵にとってのフロリダ」、「収穫時の我々の経験」の3章は、フロリダへの移住を検討しているかもしれない一般読者への語り掛けだった。幾つかの随筆、「フロリダの1月の花」、「ジュリントンで見つけたこと」、「川を昇るグランドツアー」、「セントオーガスティン」の4章は、地域でも最良の景観を叙述することに向けられている。「少女たちへの手紙」、「手紙を書くこと」、「途中にある我々の隣人」と題する章には、ストウがマンダリンにおける日々の生活に関する個人的な詳細をいれたので、より個人的な感慨が含まれている。フロリダ州や解放された奴隷に対する彼女の観察は手紙や随筆で間欠的に触れられているが、最後の2章である「年寄りカジョーと天使」と「南部の労働者達」はこの話題のみに捧げられている。 『ヤシの葉』はストウとして初めての回想記ではなかった。1854年、最初のヨーロッパ旅行について『外国の地の陽の当たる回想録』を出版しており、アメリカ女性によるヨーロッパに対する見解として特徴ある本だった。これに続いて『ソレントのアグネス』を1861年から1862年に「アトランティック・マンスリー」連載する形で掲載した。『ソレントのアグネス』の材料はイタリアの観察と経験から抜粋したものであり、家族と共に行った3回目のヨーロッパ旅行で集めていた。『フロリダにおけるハリエット・ビーチャー・ストウ』の著者オーラブ・タレシウスは、ストウが見たものを全て選択的肯定的なものに紡ぐ傾向を認めている。ストウは『外国の地の陽の当たる回想録』の序文でこのことを次のように述べている。 もし批評というものが全て「バラ色」になるように与えられるならば、その答は「なぜそうでないの」である。もし登場人物やシーンがあまりに明るい鉛筆で書かれているように見えるならば、読者は結局、人の隣人について良く考えしゃべる傾向よりも多くの悪い罪があると考えるでしょう。それゆえに、これら手紙を出版する目的は、誠実な心を持ち正直な人々に、人生の同じ同意できる絵と方法を与えることであり、それが作者自身の目に適うものである。 ストウは、フロリダの地域について、またその気候の要素、柑橘類、水、病気と健康に関する一般的考えなどあまり知らなかったので、虚弱な体質を回復させられる自然の驚異と力のある、異国的な場所としてフロリダを描く宣伝計画を持った幾人かの初期著作家と変わらなかったと考えられる。フロリダについて旅行記作家が出版したものは、誇張されたものであり、現実逃避主義文学に飢えた聞き手によって容易に受け入れられるものだった。伝記作家のフォレスト・ウィルソンは、作品となった『ヤシの葉』(1873年出版)は、フロリダについて最初の宣伝書だと考えている。北部の地方新聞にフロリダに関する文書が載せられることもあったが、この頃フロリダはまだ未開の荒野だったので、北部人はそこがどのような所なのかまだ概念を持っていなかった。ストウはオレンジの中で見た驚くほどの特性に魅せられ、その本の題を『オレンジの花』とするつもりだったが、この地域に最も多く生えている植物を表すものに変えた。
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