本文の伝承の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:57 UTC 版)
紫式部の書いた『源氏物語』の原本は現存していない。また、『紫式部日記』の記述によれば、紫式部の書いた原本をもとに当時の能書家によって清書された本があるはずであるが、これらもまた現存するものはない。『紫式部日記』の記述によると、そもそも、作者の自筆の原本の段階で草稿本、清書本など複数の系統の本が存在し、作者の手元にあった草稿本を道長が勝手に持ち出すといった意図しないケースを含めてそれぞれが外部に流出するなど、『源氏物語』の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路をたどっていたことが分かる。確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は現在のところひとつも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたとみられる写本も非常に数が限られている。このため、現在ある諸写本を調べていけば何らかのひとつの本文にたどり着くのかどうかさえ議論に決着がつかない状態である。そのため、現在では紫式部が書いた原本の復元はほぼ不可能であると考えられている。 平安時代末期に成立したとみられる『源氏物語絵巻』には、絵に添えられた詞書として『源氏物語』の本文とみられるものが記されており、その中には、現在知られている『源氏物語』の本文と大筋で同じながら、現在発見されているどの写本にもみられない本文が含まれている。この本文は現在確認されている限りでもっとも古い時代に記された『源氏物語』の本文ということになるが、「絵巻の詞書」というその性質上、もともとの本文の要約である可能性などもあるため、本来の『源氏物語』本文をどの程度忠実に写し取っているのか分からないとして、本文研究の資料としては使用できないとされている。 『源氏物語』は完成直後から広く普及し多くの写本が作られたとみられる。鎌倉時代以降の『源氏物語』が古典として重要な教養の源泉であるとされた以後の時代に作成された写本は、証本となしうる信頼できる写本を元に注意深く写しとって、きちんと校合などもしたうえで完成させることが一般的であった。しかしそれ以前、平安時代には『源氏物語』などの物語は広く普及し多くの写本が作られており、その中には従一位麗子本などの身分の高い人物が自ら作ったとみられる写本もあったが、物語という作品の位置づけが「絵空事」「女子どもの手慰み」といったものであり、勅撰集など公的な位置づけを持った歌集はもちろん、そうでない私的な歌集などと比べてもきわめて低いものであった。そのため、当時は筆写の際には文の追加・改訂を自由に行うことがごく普通であったとみられる。さらに作者の紫式部が受領階級の娘であり妻であって当時の身分・階級制度の中ではあまり地位が高くはなかったことも、本文を忠実に写し取って伝えていこうとする動機を欠く要因になった、とする意見も学者の中には多い。 平安時代中期に書かれた『更級日記』の中には、作者の菅原孝標女が『源氏物語』の一部分だけを読む機会があり、その最初からすべてを読みたいと願ったという記述がみられる。このように、『源氏物語』のような大部の書物は必ずしもその全体が揃って流通しているのではなかったようである。写本による流通が主であった時代には、大部の書物の場合にはその中から自分が残したい、あるいは他人に読ませたいと考えた部分だけを書き写すといった形で流通することも少なくなかったと考えられる。このような事情により、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての頃には既に、『源氏物語』の写本は多く存在していてもその内容は家々が保有する写本ごとに異なっていて元の形が分からないという状況になっていた。
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