本庄宿に関する諸々の情報
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本庄宿の19世紀当時の風景を今に伝えるものとして、渓斎英泉作中山道六十九次の『支蘓路(きそろ)ノ駅本庄宿神流川渡場』があるが、その他にも幕府が作成した詳細な絵図もある。それが『中山道分間延絵図』である。これは寛政12年(1800年)から文化3年(1806年)にかけて作成された国内の各道中を集成した測量絵巻の一本である。縮尺は約1800分の1で、1982年に国の重要文化財に指定されている。この『中山道分間延絵図・本庄宿』の模写(レプリカ)は、本庄市立本庄歴史民俗資料館の2階に展示されている。 本庄宿が中山道で最大の宿場町と成り得たのは、早い時期に城が廃城(本庄藩が廃藩)となったことで、城下町全体を宿場町としてそのまま利用できたことによる。文字通り、城下町(武家の領地)から宿場町(商人の町)へと方向転換し、代わっていった町であり、幕府の政策意向による。結果として、大飢饉や天災が生じた時でも、諸藩が財政難から領民を救えなかったのに対し、本庄宿では豪商達が宿内民の救済処置に当たることができた。 基が城下町であるため、道が入り組んで細かいことも特徴の一つであり、近年になって道路整備が行われるまで、複雑な町の造りが交通事故の多さに繋がっていた。 本庄宿は、宿場町としては規模が大きかったため、何度か大きな火災被害を受けており(特に町の拡大が進んだ18世紀から)、近世当時の面影を残す建物は少ない(明治期の近代建築の方が目立つ)。本庄宿の蔵作りは街道沿いの正面ではなく、店先を一つ下がった部分に建設されている。これらは隣家の蔵と繋がり、蔵の帯とも言うべき家並みを作った。その理由は、火事になった時、防火帯の役目をはたしたからである。商家の資産を保管していた、こうした蔵々が火災の時に盾となった。これも近世当時の建物が少ない理由である。 本庄宿の総鎮守は、現在の千代田3丁目2番3号(宮本町)に鎮座する金鑚神社である。本庄氏滅亡後、近世になって何度か移転した末、現在地に至る(小笠原政信の方も参照)。『金鑚神社略記』の由緒によると、本庄の地に金鑚神社(分社)が建立したのは欽明天皇2年(541年・6世紀中頃)とされる。中世では東本庄の地にあり、代々本庄氏の氏神として祀られていたが、本庄宮内少輔実忠の代になり、本庄城の築城にともない移転した。本殿は18世紀初めに建てられ、当時は金鑚明神の名で親しまれたとされる。 18世紀から19世紀にかけての児玉郡周辺で普及した地方(ローカル)剣術に真之真石川流と言う流派があり、柳生新陰流の末流とされる剣術である。この石川流の4代目小林庄松は本庄宿を拠点として周辺地域に広めていった(当流より古くから奥山念流も地元では普及していた)。 皇女和宮親子内親王は田村本陣の方を通った。 後の新撰組局長近藤勇が、浪士組の一員として京都に向かう際、芹沢鴨の宿割りを忘れ、怒った芹沢が本庄宿の街道上で夜通し篝火を焚いたというエピソードがある。 明治時代、本庄へ首都を移そうと発案した人物がいる。佐賀藩士であり、近代海軍創設や日本赤十字社を創立した佐野常民(明治35年没)である。彼は『遷都意見書』を提出し、外国船の攻撃を受けない地域で、水害の恐れがなく、水運が良く、高い山がなく、気候が温暖で、飲料水が確保できる風土を条件とし、その条件を満たした地域として具体的に本庄をあげた。ただし、この意見書は草案で終わったと考えられている。この地候補本庄論の内容が書かれた資料は、長い間、忘れられていたが、慶應義塾大学教授の手塚豊によって、昭和36年(1961年)に発見されることとなる。
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