有名な反体制派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 03:01 UTC 版)
「ルドゥ・ドゥ・アマー」の記事における「有名な反体制派」の解説
ドゥ・アマーは、特に晩年には軍事政権に対して非常に率直な態度で臨んでいた。アマーの長男の故ソー・ウィンが1963年にそうしたように、次男ポー・タン・ギャウンがビルマ共産党に参加するために地下に潜った後の1978年末に夫と末子のナイイン・チャンと共に逮捕された(ポー・タン・ギャウンは現在ビルマ共産党のスポークスマン)。ドゥ・アマーとナイイン・チャンはウー・フラが釈放された後も、1979年後半までの間1年以上拘留された。ナイイン・チャンは1989年12月に再逮捕され、10年近くを刑務所で過ごした。現在、雲南省に亡命しているポー・タン・ギャウンは、二度と母親に会うことはなかった。 ウー・フラは43年間の結婚の中で5人の子供と6人の孫を設けたのちに1982年に他界した。ルドゥ夫妻はビルマの文学者の間でもっとも有名な夫婦チームの一つだった。ドゥ・アマーは1984年にマンダレー中心部を一掃した大火の際に、印刷工場と倉庫が全焼して別の損失を被った。1985年に70歳になっていら、ドゥ・アマーの誕生日は毎年ビルマの芸術と文学の世界で祝われてきた。このイベントは、常に存在する軍情報部の監視下で非公式の反体制派の大会となり、2006年11月に当局からの圧力で会場を変更する必要があるまで、通常はマンダレー近郊のアマラプラ(英語版)のタウンタマン湖にあるタウンレイロン修道院で開催されていた。アマーは公の生活に対して積極的であり、1998年に Byamazo Luhmuyay Athin(相互自発援助協会)の設立に尽力し、医療費と葬儀費用にに関して貧しい家庭を支援した。彼女は「人々の母」や「おばあさん」と呼ばれた。高齢者が尊ばれる社会で、ミャンマーの慣習にしたがって彼女自身が自分をそう呼ぶように、ほとんどの人が彼女を Amei(母)と呼んだ。 「当局の調子に合わせて踊らない私たちにとって、私たちはメッセージを伝えるために自分たちが書くものにおいて創造的でなければなりません」とアマーはミャンマーに報道の自由がないことを確認した。彼女はジャーナリズムをあきらめ、伝統と文化についてしか書くことができなかったことを後悔した。のちに『母の古い言葉』("Mother's Word of Old")にまとめられた記事の中で、彼女は社会的結束力、道徳、服装やマナーにおける伝統的価値観の緩みを嘆き、その原因を経済的混乱、消費主義とグローバリゼーション、中国からの移民に求めた。彼女はかつて、中国人が発砲せずにマンダレーを占領し、現在の老板(中国語で「ボス」)時代に置き換え、マンダレーが非公式な雲南省の植民地のように感じていると書いた。ドゥ・アマーはビルマの歴史、宗教および彼女の生まれ故郷、ビルマの最後の王朝の首都マンダレーで具体化される主権の強固な擁護者であり、このように彼女の視点は広く民族主義的、宗教的、民族中心の伝統主義者でありながら、書記言語の近代化の最前線に立っており、夫と協力して支配的なビルマ族と、少数民族との間の相互理解と友情とを推進し、性教育とHIV/AIDSに対する公共の認識の促進とおよび社会における女性の無給の労働に関する苦情を表明した。 ルドゥ・ドゥ・アマーは2008年4月7日に92歳で他界した。彼女の家はマンダレーの Ludu Taik であり、次女のティン・ウィン(Tin Win、1947年生)が出版事業を担当し、末子のナイイン・チャン(作家の Nyi Pulay、1952年生)とその家族がいた。長女のタン・イン・マー(Than Yin Mar、1943年生)は母親の古いペンネームの一つである Mya Myint Zu で執筆を始めた引退した医学教授であり、母親の健康を管理していた。彼女は2人の息子、2人の娘および6人のとともに生き抜いた。
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