春川正面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 15:46 UTC 版)
「ソウル会戦 (第一次)」の記事における「春川正面」の解説
鳳儀山で戦況を見ていた韓国軍第6師団長(金鍾五大佐)は、敵の攻撃が予想以上に強力な点、捕虜の供述などから北朝鮮軍の再攻撃があると予測し、これに対処するため師団主力を集中的に運用する必要があると判断した。このため昭陽江を障害にした最終抵抗線を占領するように命じた。25日に甚大な被害を出した北朝鮮軍は翌26日夜明けに攻撃を開始した。 韓国軍第7連隊第1大隊(大隊長:金龍培少佐)は玉山浦東側の稜線陣地を確保していたが、午前3時に北朝鮮軍が牛頭山陣地に攻撃して交戦が開始された。第1大隊は北朝鮮軍の南下を阻止し、午前5時に昭陽江を渡河して計画された陣地を占領した。 北朝鮮軍第2師団は昭陽江を突破するため、多数の火砲と8両の自走砲を動員して午前5時40分から20分間の攻撃準備射撃を実施して攻撃を敢行した。北朝鮮軍は鳳儀山一帯の昭陽江に主攻を、韓国軍第19連隊が占領していた槿花洞に助攻を加えてきた。これに対して韓国軍第7連隊は鳳儀山や昭陽江などの天然の障害を利用し全ての火力を集中して北朝鮮軍の昭陽江を阻止していた。韓国軍の集中攻撃で昭陽江と昭陽橋を偵察中であった北朝鮮軍第2師団工兵大隊参謀長の卞庸一少佐が負傷した。 午前10時から北朝鮮軍の総攻撃が開始され、自走砲を昭陽江北側に進出させ、鳳儀山の連隊観測所と山の中腹に構築された火器陣地に直接弾を浴びせて破壊し始めた。さらに3両の自走砲が昭陽橋を通って韓国軍の対戦車砲陣地に攻撃を加えたが、対戦車砲第2小隊(小隊長:沈鎰中尉)によって撃破された。この時、先頭の自走砲に搭乗していた自走砲大隊長が負傷し、指揮部に後送された。 韓国軍第19連隊第1大隊(大隊長:崔炳黙少佐)は、北漢江に沿って春川市内に浸透してくる北朝鮮軍に備えて昭陽江と北漢江が合流する槿花洞を占領しており、攻撃に備えて槿花洞から昭陽江までにいたる個人壕と交通壕を構築していた。午前10時から北朝鮮軍の2個大隊と激しい戦闘を展開、12時に再び攻撃してきた北朝鮮軍を撃退して陣地を確保した。第2大隊は午前11時に正面の北朝鮮軍を攻撃して昭陽江を渡河したが、11時50分に元の位置に戻ってきた。12時30分に再び攻撃して陣地を占領したが、20分と持たずに元の位置に戻ってきた後、第2大隊は前進と後退を繰り返しながら北朝鮮軍の南下を阻止した。 北朝鮮軍から見ると昭陽江の南岸に韓国軍が布陣し、さらに敵岸一帯が高地であるという最悪の状況であった。また工兵もわずかなため橋の占領や敵前渡河は難しく、火力の掩護も無いため韓国軍砲兵を沈黙させることができず、自走砲大隊も単独前進を阻止されていた。当時工兵参謀であった朱栄福は作戦計画したソ連軍顧問の中に工兵関係の上級将校がいたのか疑問視した。夕方、北朝鮮軍第2軍団指揮部は前進し、龍山里付近に移動した。 韓国軍第7連隊第2大隊(大隊長:金鍾洙少佐)は、昭陽江南岸のガマゴル(가마골)-ヤンジェイル(양재일)一帯にて接敵がほとんどない状態で隊伍を整え、北朝鮮軍の渡河に備えていた。午後7時に第2大隊は春川東側の防衛のため、鳳儀山東南1.5キロ地点の後坪里に移動するよう命令を受けて、強行軍で移動して午後9時には部隊展開を完了した。 師団工兵大隊長は昭陽橋の爆破を具申したが、師団長は逆襲時を考慮して爆破を見合わせ、かわって橋の上や入り口に障害を設置するようにした。 一方、この26日、陸軍本部の命令により、第7師団と第6師団の間隙を埋めるため、首都師団第18連隊(一部部隊欠)および独立機甲連隊第3徒歩捜索大隊第8中隊が加平に進出していたが、ソウルの危急の報を受けて翌27日朝にはソウルに復帰してしまった。したがって、この地域には第7連隊第3大隊(一部部隊欠)のみが華岳山から加平に到る接近路を遮断していた。
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27日早朝、北朝鮮軍は第2師団、第12師団の2個師団を投入し、春川への総攻撃を実施した。10時頃より、T-34戦車およびSU-76自走砲を先頭にして鳳儀山を集中攻撃し、また1個大隊がカレモギで昭陽江の渡渉を試みた。しかし峻険な地形によって戦車の機動力は制限され、また砲兵陣地を設置することもできず、頼みとする機甲火力・遠戦火力を発揮することができなかった。これに対し、韓国軍は周到に陣地を配備しており、また砲兵陣地としての適地には射撃を準備していた。北朝鮮軍は韓国軍の陣地を制圧するため、無理に砲兵を前線まで進出させたが、かえって韓国軍砲兵の射撃を受けた。北朝鮮軍砲兵の損害は大きく、師団砲兵7門、76mm自走砲16門、M1937 45mm対戦車砲2門、迫撃砲数門を破壊された。北朝鮮軍第2師団の損害はついに40%に達して、攻撃力を喪失し、攻撃は頓挫した。 この間、途絶していた韓国陸軍本部と第6師団司令部の連絡が復旧した。陸軍本部の参謀副長(金白一大佐)は、「西部戦線は完全に崩壊し、陸軍本部は始興に後退した。第6師団長の判断により、中央線を中心として中部戦線で遅滞戦を展開することを望む」という内容の指示をしたが、直後、再び通信は途絶した。このとき初めて全戦線の概況を把握した第6師団長は、ソウルが失陥した場合に中部戦線が後方より包囲される可能性が高いと判断したものの、春川市民と行政機関の避難には少なくとも24時間の余裕が必要であった。このため、同師団長は第7、第2連隊に現陣地を固守させ、第19連隊を洪川に移動させて第二防御線を編成させて第7、第2連隊の後退を掩護すると同時に、第16野戦砲兵大隊主力に第2連隊を支援させるという作戦命令を下達した。第19連隊と第16野戦砲兵大隊(一部部隊欠)は同27日午後より春川を離れ、洪川に移動していった。第7連隊は新たな予備隊を編成し、第19連隊の抜けた防御線に配置した。 北朝鮮軍はこの日の午前に昭陽江の渡河に失敗したのち、第19連隊の抜けた戦線を占領していたが、第7連隊の陣地を再び攻撃してきた。昭陽橋に戦車を投入するとともに2個連隊でカレモギを渡渉し、ついに韓国軍第7連隊の防御の一角が崩れた。さらに右側方からの後方遮断が憂慮されたため、第7連隊は鳳儀山を離脱し、17時30分ころ春川を放棄して原昌峠方向に後退していった。 北朝鮮軍は翌28日朝、戦車9両を先頭にして春川の町に入った。
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