前方防御部隊
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「国境会戦 (朝鮮戦争)」の記事における「前方防御部隊」の解説
第17連隊は甕津半島において、第17連隊(2,719名)、第7砲兵大隊(526名)、対戦車砲中隊(129名)、他支援部隊(300名)からなる連隊戦闘団編成を取っており、総員3,600名。主要装備は、105mm榴弾砲15門(うち3門故障)、57mm対戦車砲6門、81mm迫撃砲12門、60mm迫撃砲18門、2.36インチロケット砲60門、各種機関銃25挺を保有していた。開戦時の連隊長は白仁燁大佐。その任務は、甕津地区において防御戦闘を展開するとともに、遊撃戦によって敵の後方を攪乱することであった。必要に応じ海州一帯の占領を準備することになっていたが、一方で、戦況次第では一時撤退することも考慮されていた。 第1師団はソウルの北西、開城から高浪浦にかけての正面を担当していたが、開城については必要に応じて放棄する決心をしており、防御の重点は汶山に指向していた。また、敵が主攻を向けると考えられる議政府正面の第7師団の左翼を援護することも求められていた。第11連隊(2,527名)、第12連隊(2,728名)、第13連隊(2,578名)の3個連隊を基幹として砲兵、工兵大隊も配属されており、総員9,715名。主要装備は、105mm榴弾砲15門、57mm対戦車砲18門、81mm迫撃砲36門、60mm迫撃砲54門、2.36インチロケット砲192門、各種機関銃43挺を保有していた。しかし第11連隊が保有していた共有火器の30パーセントは5月下旬から6月上旬にかけて後方基地廠に搬送整備したため、同連隊は主に個人火器だけを保有していた。開戦時の師団長は白善燁大佐。 第7師団はソウルの北東、議政府回廊の正面を担当しており、敵の主攻との衝突が想定されるもっとも重要な部隊であった。第1連隊(2,514名)、第3連隊(2,487名)、第9連隊(2,419名)の3個連隊を基幹とし、砲兵、工兵大隊も配属されていた。ただし、開戦の直前(6月15日付)に行われた部隊改編により、第3連隊が首都警備司令部に隷属変更され、これに代わり第2師団より編入された第25連隊の部隊移動が遅れたため、第7師団は2個連隊基幹(総員7,211名)で開戦を迎えた。開戦時の師団長は劉載興准将。 第6師団は春川正面の中部山岳地帯を守備しており、春川正面を第7連隊、麟蹄正面を第2連隊に警備させ、北朝鮮に侵攻にあたっては原州の第19連隊をもって反撃する計画であった。この正面は北朝鮮軍の助攻正面と考えられ、状況によっては一部をソウル方面に転用しなければならないと考えられていただけに縦深陣地は造られていなかった。最も危険だと考えられていた華川-春川道沿いには十数個のトーチカが構築されており、これは5代目の師団長であった劉載興大佐が実施したものであった。第2連隊(2,724名)、第7連隊(2,503名)、第19連隊(2,160名)および第16砲兵大隊、工兵大隊により編成されており、総員9,338名。主要装備は、105mm榴弾砲15門、57mm対戦車砲12門、81mm迫撃砲33門、60mm迫撃砲65門、2.36インチロケット砲276門を保有していたが、105mm榴弾砲2門は故障により後方に搬送していた。開戦時の師団長は金鐘五大佐。 第8師団は東海岸道正面を守備しており、第10連隊(第21連隊の1個大隊を配属)を右第一線、第21連隊第1大隊を左第一線、第21連隊の1個大隊を予備として38度線陣地を確保、突破された場合は敵を打撃しながら海岸沿いに後退し、連谷川の線に誘致して撃破する。やむを得ない状況でも江陵と広院里付近を確保して攻勢に転移する、という計画であった。大隊長以上の現地戦術や図上演習を実施し、各部隊や工兵大隊は第2、第3防御線を構築中であった。第10連隊(2,476名)、第21連隊(2,467名)の2個連隊および砲兵、工兵大隊により編成されており、総員6,866名。主要装備は、105mm榴弾砲15門、57mm対戦車砲12門、81mm迫撃砲24門、60mm迫撃砲38門、2.36インチロケット砲128門を保有していた開戦時の師団長は李成佳大佐。
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