洪川正面
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「ソウル会戦 (第一次)」の記事における「洪川正面」の解説
26日朝、韓国軍第2連隊は、この時点で掌握していた2個大隊により、計画通り反撃を開始したが、北朝鮮軍の強力な歩戦協同攻撃と遭遇し、後退を余儀なくされた。この後退は、上述した師団長の指示により春川より急派された第16野戦砲兵大隊第1中隊によって掩護されたが、北朝鮮軍の急追を受けて第2連隊の指揮系統は瓦解し、多くの損害を出して哲亭里に後退した。同日午後遅くに集結したところ、第2連隊の兵力は1個大隊相当にすぎなかった。第2連隊長はマル峠に新たな防御陣地を編成する決心をし、連隊の再編成を行なった。小マル峠に第1大隊が、大マル峠に第2大隊が配置され、対戦車撃滅地帯が編成された。 一方、縣里に配置されて連隊本部との連絡が取れなくなっていた第3大隊は、国境会戦においてフク峠~チンダリ一帯で激戦したのち、26日にはオミジェに後退していた。 このとき洪川正面で攻撃していたのは北朝鮮軍第12師団で、韓国に最も深く侵攻していた師団であった。このまま攻撃を続行すれば26日中には洪川を奪取し、韓国軍第6師団の退路を遮断できる見込みであったが、この夜、同師団は、麟蹄に引き返したのち春川東方に進出し、第2師団と共同で春川を攻撃するよう命令を受けた。北朝鮮軍、およびその基本となるソビエト軍の戦闘教義においては、〈敵を撃破することが目的で、都市の解放は、敵の撃破というその結果から自然に生まれるものだ〉とされているが、この場合は、例外的に春川の奪取が優先するものと見なされた。春川を奪取したのち突進し、ソウル南方に進出して韓国軍主力を包囲するという構想は、現第2軍団長が作戦局長であった際に作成されたものであったため、この構想の成否は軍団長の重大な関心事であった。26日夕、第12師団は春川北側に到着し、第2師団と合流した。 韓国軍第6師団長はこの動きを察知できず、かえって師団予備を洪川に移動させ、また洪川正面の第2連隊を増強する決心をした。これはマル峠が戦車を先頭にした北朝鮮軍部隊の圧力を受けており、ここで洪川が奪取された場合、師団の退路が遮断されることを憂慮したことによる措置であった。
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春川正面が重要な局面に到っていた27日、東の洪川の第2連隊正面では、韓国側の予期とは異なって、北朝鮮軍は小規模な歩戦協同部隊をマル峠に投入しての威力偵察を行なうにとどまり、本格的な攻撃行動はなかった。同連隊はマル峠の防御を強化し、また同日夕、洪川に到着した第19連隊も第3大隊をマル峠西南方の後方に配置した。第19連隊主力は春川と楊口、麟蹄から洪川に到る両側を制圧できる望嶺山に配置され、洪川の防御を強化した。
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