易占の成立とは? わかりやすく解説

易占の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:06 UTC 版)

易経」の記事における「易占の成立」の解説

易経繋辞上伝には「易は聖人著作である」ということ書かれており、儒家によって後に伝説作られた。古来の伝承によれば、易の成立は以下のようなものであったという。まず伏羲八卦作り、さらにそれを重ねて六十四卦とした(一説神農が重卦したとも)。次に周の文王卦辞作り周公爻辞作った一説爻辞文王の作とする)。そして、孔子が「伝」を書いて商瞿しょうく)へと伝え漢代の田何(でんか)に至ったものとされる。この『易』作成関わる伏羲文王周公)・孔子を「三聖」という(文王周公分け場合でも親子なので一人として数える)。孔子晩年易を好んで伝(注釈いわゆる十翼といわれる彖伝・繋辞伝・象伝・説卦伝・文言伝)を書いたというのは特に有名であり、『史記孔子世家には「孔子晩年易を愛読し、彖・繋・象・説卦・文言書いた。易を読んで竹簡とじひも三度切れてしまった」と書かれており、「韋編三絶」の故事として名高いこのような伝説儒家が『易』を聖人作った経典としてゆく過程形成された。伏羲画卦は「易伝」の繋辞下伝の記述基づいており、庖犧(伏羲)が天地自然の造型観察して卦を作り神明の徳に通じ万物の姿を類型化したとあり、以後、庖犧-神農-黄帝-堯-舜と続く聖人たちが卦にもとづき人間社会文明制度創造したとある。 しかしながらこの伝説は古くから疑問視されていた。易の文言伝承相違している点が多いためである。宋の欧陽脩が、「十翼複数人間著作物だろう」と疑問呈したのに始まり宋代以降易経成立に関する研究進めば進むほど、上記伝説信じがたいことが明らかになった。朱熹は「六十四卦はただ上経だけが整ったになっているが、下経は乱雑な記述になっており、繋辞上伝は整っているが繋辞下伝は彖伝・象伝と整合性取れない」といい、「彖伝・象伝はよく出来ているので聖人著作だろう」と考えたが、他の伝は聖人著作ではないと考えていたのではないか、と内藤湖南論文『易疑』で述べている。内藤は更に「商瞿以來傳授が信ぜられぬことの外、即ち田何が始めて竹帛に著はしたといふことは、恐らく事實とするを得べく、少くとも其時までは易の内容にも變化起り得ることが容易なものと考へられるのであるそれ故筮の起原或は遠き殷代の巫に在りとし、禮運に孔子が殷道を觀んと欲して宋に之て坤乾を得たりとあるのが、多少據りどころがあるものとしても、それが今日周易なるには絶え變化し、而かも文化急激に發達した戰國時代に於て、最も多く變化受けたものと考ふべきではあるまいか。」(『易疑』)と述べ、易が聖人著作であることを否定した。後には孔子と易との関わりまでも疑問視されたが、これは高田眞治白川静らによって逆に否定された。現代では以下のように考えられている。 古代中国殷代には、亀甲焼き、そこに現れる亀裂の形(卜兆)で、国家的な行事吉凶を占う「亀卜」が、神事として盛んに行われていたことが、殷墟における多量甲骨文発見などにより知られている。西周以降の文の、「蓍亀」や「亀策」(策は筮竹)などの語に見られるように、その後亀卜と筮占が併用され時代あったらしい。両者比較については、『春秋左氏伝』僖公4年の記に、亀卜では不吉占筮では吉と、結果違ったことについて卜人が、「筮は短にして卜(亀卜)は長なり。卜に従うに如かず占筮短期視点から示し亀卜長期視点から示します亀卜に従うほうがよいでしょう)」と述べた、という記事見られる『春秋左氏伝』には亀卜占筮に関するエピソード多く存在するが、それらの記事では、(亀卜の)卜兆と、(占筮の)卦、また、卜兆の形につけられ占い言葉である繇辞(ちゅうじ)と、卦爻につけられ占い言葉である卦辞爻辞が、それぞれ対比的な関係を見せている。こうして占われた結果朝廷蓄積され、これが周易のもとになった考えられている。周易のもとになった書物各地普及すると、難解な占いの文の解釈書が必要になり、戦国末期から前漢初期に彖伝・象伝以外の十翼」が成立したであろう…というのが丸山松幸による現在の通説のまとめである。 また周代理想的な官制描いた周礼』の春官宗伯には大卜という官吏が三兆・三易・三夢の法を司ったとされ、三兆(玉兆・瓦兆・原兆)すなわち亀卜に関しては「その経兆の体は皆な百有二十、その頌は皆な千有二百」とあり、後漢鄭玄は卜兆が120体に分類され1体ごとに10ずつの繇があったと解している。一方三易連山帰蔵周易)すなわち占筮に関しては「その経卦は皆な八、その別は皆な六十有四」と述べ、卦に八卦があり、それを2つ組み合わせた六十四卦卦辞がある『易』に対応した記述となっている。なお三易の「連山」「帰蔵」を鄭玄それぞれ夏代殷代の易と解している。「連山」「帰蔵」は後世伝わっていない。 1993年、郭店一号墓より竹簡記された『易』が発見された。これは現存最古秦代の『易』の写本である。

※この「易占の成立」の解説は、「易経」の解説の一部です。
「易占の成立」を含む「易経」の記事については、「易経」の概要を参照ください。

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