高田眞治とは? わかりやすく解説

高田眞治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/13 14:53 UTC 版)

高田 眞治
人物情報
生誕 (1893-08-06) 1893年8月6日
日本大分県宇佐町
死没 1975年11月24日(1975-11-24)(82歳)
出身校 東京帝国大学
子供 高田淳
学問
研究分野 中国哲学
研究機関 東京帝国大学
大東文化大学
学位 文学博士
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高田 眞治(たかた しんじ、1893年8月6日 - 1975年11月24日[1])は、日本漢学者[1]文学博士[1]東京帝国大学教授[2]大東文化大学教授。漢学会設立者。号は陶軒[3]。西洋由来の支那学(シノロジー)ではなく日本伝統の漢学を重視した。

中国文学者学習院大学名誉教授の高田淳は長男。

経歴

1893年、大分県宇佐郡宇佐町(現・宇佐市)生まれ。高田豊市の三男[2]1917年東京帝国大学文科大学支那哲学科卒業[1][4]

卒業後は水戸高等学校教授、1924年より京城帝国大学予科教授。1928年から1930年までドイツ留学。1930年より東京帝国大学助教授。アメリカ合衆国中華民国に留学し、帰国後の1934年より教授。1936年、文学博士が授与される。また、1932年に漢学会を設立し、『漢学会雑誌』を創刊、国家主義的思潮に沿って東京帝国大学文学部支那哲学文学科を指導する。

しかし敗戦により教員不適格とされ、1948年1月教職追放に遭い同大学を退職。1952年3月追放解除。1956年、大東文化大学教授、1963年定年となる。長い沈黙を経て、1966年から1968年、『詩経』の全注釈を上梓した。

人物

  • 長沢規矩也によれば、高田が東京帝大に採用された理由は、前任者の服部宇之吉と同様に西洋哲学に通じていたことや、「お人好し」な人柄が服部とその妻繁子に気に入られたことによる[5]。国家主義に協力して戦後に追放されたのも、本人の思想というよりはそのような人柄のため、周りに流されていたからだった[6]

家族・親族

高田家

大分県、東京杉並区[2]

1902年 - 1973年
夭折
1925年 - 2010年

著述

  • 儒教の精神』大日本図書 1937
  • 『上代支那哲学史』東京プリント刊行会 1937
  • 『支那哲学概説』春秋社 1938
  • 『支那思想の研究』春秋社, 1939
  • 『支那思想と現代』大日本図書, 1940
  • 『日本儒学史』地人書館 1941
  • 『東洋思潮の研究 第1』春秋社松柏社,1944
  • 『支那思想の展開』第1巻 弘道館図書,1944

共編著

  • 『比較政治学』浜薫明共著 南郊社, 1939
  • 『時文読本』魚返善雄共編 大日本図書, 1940

校訂など

脚注

  1. ^ a b c d 高田 真治とはコトバンク。2019年2月15日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『人事興信録 第13版 下』タ118頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月15日閲覧。
  3. ^ 「道」”. Digital Archives. 2022年1月29日閲覧。
  4. ^ 『東京帝国大学一覧 從大正6年 至大正7年』学士及卒業生姓名 文学士 哲学科228頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月15日閲覧。
  5. ^ 長沢 2000, p. 176.
  6. ^ 長沢 2000, p. 195.

参考文献


高田真治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/15 01:10 UTC 版)

高田 真治(たかだ しんじ、1952年6月6日 - )は、日本のテレビプロデューサースカパーJSATホールディングス(スカパーHD)代表取締役会長、スカパーJSAT代表取締役執行役員会長。

日本テレビ放送網のプロデューサーとして活動後、メディア戦略局長、執行役員営業局長などを歴任。スカパーJSAT(旧・スカイパーフェクト・コミュニケーションズ)出向後は同社及び持株会社・スカパーHDの代表取締役社長を務め、2019年より両社の会長に就任している。

人物・経歴

岡山県出身。岡山県立岡山大安寺高等学校一橋大学商学部を卒業後、1976年日本テレビに入社。同期入社に渡辺弘小杉善信、清水奈津子(小杉とは大学も同期)などがいる[1]

特命リサーチ200X』、『世界まる見え!テレビ特捜部』、『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』などのチーフプロデューサーや、『デスノート』、『まだまだあぶない刑事』、『LOFT ロフト』など日本テレビ製作映画の制作総指揮を務めた。

1997年6月日本テレビ放送網報道局社会部長、1999年6月同社報道局政治部長、2000年10月同社メディア戦略局メディア戦略部長、2002年7月同社メディア戦略局次長[2]

2003年6月にスカイパーフェクト・コミュニケーションズ(現・スカパーJSAT)に出向し、執行役員常務に就任。2005年6月には日本テレビに戻り、メディア戦略局長兼コンテンツ事業局長を務め、2006年からは地上デジタル放送補完再送信審査会委員長も務めた[3]。2007年3月日本テレビ放送網株式会社営業局長、2008年6月日本テレビ放送網執行役員営業局長。テレビ広告費の低下傾向に対し、マーケティングデータ強化により対応[4]。2010年には日テレCM大賞審査委員を務めた[5]

2008年6月には再びスカパーに戻り、スカパーJSATホールディングス・スカパーJSATの代表取締役副社長に就き、2011年4月には両社の代表取締役社長に昇格した。

2014年には株式会社オプティキャストを吸収合併し、スカパーJSATの一般放送事業者化を行った[6]。2015年一般社団法人電気通信事業者協会副会長[7]

主な担当作品

脚注

  1. ^ 「スカパーHD社長に高田氏昇格」日本経済新聞2011/3/10
  2. ^ 「トップインタビュー〜スカパーJSAT 代表取締役 執行役員社長 高田 真治 氏」日経コンピュータ 第841号 2013.8.22
  3. ^ 「地上デジタル放送補完再送信に係る審査会の設立のお知らせ」総務省
  4. ^ 「多メディア時代の営業戦略---営業局長 高田真治」日本テレビ
  5. ^ [1] 「日テレCM大賞2009 キリンビール 商品名<一番搾り キリンフリー>他に決定!」日本テレビ
  6. ^ 「スカパーJSATHD、社長に高田真治氏-秋山社長は退任」日刊工業新聞2011年03月11日
  7. ^ 「会長および副会長の改選について」電気通信事業者協会


先代
藤野隆雄
電気通信事業者協会副会長
2015年 - 2016年
次代
牧俊夫




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