日本の弓術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:10 UTC 版)
日本の弓術がいつ頃『術』として体系化されたか、また起源など弓矢の始まりが先史時代という事もあり明確な史料に乏しく定かにはなっていない。弥生時代には現在の和弓の原形(長尺・上長下短:後述)が現れ戦争に使用される等、何らかの射術技法があったと推察する事も可能だが、やはり詳細は不明である。弥生時代中期(前2-前1世紀)とされる銅鐸に、鹿を狙って弓を引く人が描かれている。文字として書かれたものとしては『魏志倭人伝』(3世紀)に記載が見られる。 礼射思想については飛鳥時代末期には文武天皇により『大射禄法』が定められたものに起源が見られ、朝廷の間で次第に弓射に関する礼射、礼法が整理され、また同時に技術も体系化、単なる射術から『弓術』として成立していったものと思われる。 7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争において大和側に帰服した蝦夷(俘囚)から騎射の技術が伝わったとされるが、和人の射術への影響は不明である。 一方で弓は武器として狩猟、戦場で用いられた事は勿論だが、人々の間で弓矢には霊妙な力があると信じられており、奈良時代には弓矢の奉納、弓射神事が行われ、またそれらを起源とした祭りや神事が現在でも各地に残っている。平安時代には弓術流派が興り、各種流派にはそれぞれに独自の技術・教え・作法が存在した。戦場、祭礼行事、朝廷での故実・年中行事などに於いて弓術流派はそれぞれに活躍、発展していく。 戦国時代には優れた武将を「海道一の弓取り」と呼ぶなど、武芸の代表格でもあった。中期頃には鉄砲の登場により弓は戦場の一線から退くが、実戦から離れても弓術は武術としての地位は変わることなく、泰平の世となった江戸時代においても弓術は表芸として、また心身鍛錬の道として依然人気は高かった。また、勧進的という、神社でトーナメント方式で行なわれる弓術大会ももようされた。時代と共に技術、道具共に研鑽が重ねられ、また同時に諸流派それぞれに独自、或は相互に発展を遂げた。流派によっては実際の戦場を想定した稽古もあるなど、その稽古内容は今日に見る弓道よりも多彩である。ただし、幕末頃には弓術の基本的な技術体系は各種流派それぞれに通じる所もあり、特徴としての差異はあっても和弓を用いる根本的な弓射技術は各種流派とも大同小異である。今日の弓道に繋がる弓術は技術、道具共に江戸時代に大成したと言っても過言ではない。 明治維新後、幕府崩壊と明治政府による近代化政策の煽りから、武術は時代遅れとされ衰退する。これを重く見た当時の武術家有志により明治28年(1895年)大日本武徳会が結成され、弓術含め各武術の普及を図る。大正8年には弓術は弓道へと改称、武徳会は幾度か射法統一を試みるが普及せず、第二次世界大戦後に解散。その後当時を代表する弓道家らにより、射の過程をその推移に順応して8つの節に分けて説明される「射法八節」が定められ、弓道は現代武道として復活を遂げる。(戦後の弓道史は弓道#歴史を参照されたい。)弓道においても弓術とほとんど変わることはなく続いているが、弓術に至っても昔のまま引き継がれている場合があり、現在でも伝統のある流派などが存在している。
※この「日本の弓術」の解説は、「弓術」の解説の一部です。
「日本の弓術」を含む「弓術」の記事については、「弓術」の概要を参照ください。
- 日本の弓術のページへのリンク