日本の律宗とは? わかりやすく解説

日本の律宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 21:35 UTC 版)

律宗」の記事における「日本の律宗」の解説

日本においても比較初期段階戒律伝えられいたものの、不完全なものでその意義十分に理解されずに一部寺院における研究留まり授戒儀式行われていなかった。 天平勝宝5年753年)、鑑真6度航海の末に唐から招来され東大寺戒壇開き聖武上皇称徳天皇初めとする人々日本初め戒律授けた。後に唐招提寺本拠として戒律研究専念し南都六宗一つとして今日まで続いている。 鑑真伝えたのは『四分律』によるものであったが、平安時代最澄空海はこれを支持せず、空海は『十誦律』を重んじた(ただし、最澄延暦寺に独自の戒壇設置するが、空海受戒については南都六宗同様に東大寺にて行うなど態度違いがある)。このため戒律に関する考え方分散化して律宗衰微したまた、受戒そのもの東大寺延暦寺中心に盛んに行われたものの、官僧資格をえるためのものとなり内容形骸化していった。 平安時代末期から鎌倉時代には実範明恵戒律復興論じ、それを引き継いで嘉禎2年1236年覚盛・有厳・円晴・叡尊の4人が国家と結びついた戒壇によらない自誓受戒行った。後に覚盛は「四分律」を重視して唐招提寺復興して律宗再興拠点としたのに対して叡尊西大寺拠点真言宗の『十誦律』を中心とした真言律宗開いた。更に京都泉涌寺俊芿南宋より新たな律宗持ち帰ったこのため俊芿の「北京律」と「南都律」と呼ばれた唐招提寺派・西大寺派(真言律宗)両派の3つの律宗並立した。この3派の革新派新義律と呼称して、それ以前古義律と区別することがある。しかし、結果的にこの新義律3派が議論交流重ねることで律宗深化再興進み中世には禅宗律宗合わせて禅律とも呼ばれて重んじられた。室町時代には禅宗押されて再び衰退するが、江戸時代には明忍・友尊・慧雲寥海・徳門普寂真淳諸宗の僧によって再度戒律復興唱えられた。 なお、明治初期には、唐招提寺例外として他の律宗寺院全て真言宗所轄されたが、1900年明治33年律宗として独立した

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