日本の思想状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
1889年(明治22年)、キリスト教系の同志社英学校において、天長節に祝意を示さない学校方針に学生が反発。明治学院でも類似の事件が起こり、民間の中にキリスト教への反感が強まりつつあった。 同年にはジャーナリズム運動から新思潮が生み出される。素朴な復古主義や排外的な攘夷論ではなく、近代化の必要性は認めつつも、鹿鳴館に象徴される政府の極端な欧米化政策に疑問を呈し、日本の在り方を見つめ直そうというものであり、平民主義を唱えた徳富蘇峰(同志社中退)や、国民主義を唱えた陸羯南らが代表的論者である。このような思想的背景から、自然法思想に疑問を投げかけ、西洋法系の旧民商法について、日本の国情を慎重に考慮すべきという議論が起きたと考えられる。 この内、徳富が創立した国民新聞(現在の東京新聞)は陸の『日本』と対決しつつ断行派。後世の評価は分かれ、ブルジョワ自由主義派とも政府松方系ともみられる。 一方、司法省法学校を法学履修前に中退した経歴を持つ陸は(賄征伐)、終始冷静な延期論を展開している。 此の問題は保守的思想に因りて惹き起こされたるものにあらずして、唯だ現に発布せられ居る民商二法典の実施期限を是非する問題に過ぎざるのみ…是とする論者と雖も敢て此の法典を無欠視するにはあらず、非とする論者も亦た此の法典を不要視せざるなり。…裁判上の見解…の統一を得ることは…論理的順序に従って編纂した…法典が最も…便益なることも、亦た我輩の固より認知する所なり。然れども…法典なければ社会乱れ国家破ると云ふほどの必要を知らざるなり。 — 陸羯南「法典是耶非」1892年(明治25年)5月
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