日本のイラストレーションとは? わかりやすく解説

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日本のイラストレーション

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 08:26 UTC 版)

イラストレーション」の記事における「日本のイラストレーション」の解説

王朝時代絵巻物から西洋美術にもジャポニスムとして大きな影響与えた江戸時代浮世絵のような版画メディアまで、日本は独自の図説文化有していた。明治以降挿絵基本的に画家担っていた。この時期重要な挿絵画家には木村荘八小村雪岱などがいる。日露戦争以降商工業成長石版印刷技術向上により広告ポスター隆盛し、西洋イラストレーション影響を受け変容進んでいった。 分野としてのイラストレーション」という呼び名日本定着したのは戦後になってからである。1951年発足した日本宣伝美術会日宣美)の公募展デザイナー登竜門となり、出品作のほとんどにはイラストレーション用いられた。この時期早川良雄粟津潔灘本唯人らがイラストレーション土壌作った。また福音館書店始めとする児童書出版社により今日のような絵本成立したのも1950年代半ばであった1960年代にはグラフィックデザイナーイラストレーター分業化始まり1964年には日宣美会員たちが東京イラストレーターズ・クラブを結成する。同クラブは「現代イメージによって証言し そのコスモス拡大意識根底として 創造的形象化をめざす イラストレーター集団」とのマニフェスト掲げイラストレーションイラストレーター存在世に広めた宇野亜喜良和田誠横尾忠則横尾は後に「画家宣言」をすることになる)らが活躍して一大ブーム形成しイラストレーション市民権獲得することに成功した。 「挿絵」という言葉より後に出来たことや、紙媒体での挿絵需要写真置き換えられて行く時期であったこともあり、そこには文章従属した挿絵というニュアンス超えて独立した美術表現としてイラストレーションという分野確立打ち出されていた。当時グラフィックデザイナーもしくは漫画家などを兼任していたイラストレーター独立した職業となるのは1970年代以降であり、分業化されて拡大した日本デザイン業界と、高度経済成長などの経済力支えられマスメディアその背景にある。 1980年代には美術抽象化や非絵画化が進行したこともあり、湯村輝彦ヘタうまが社会現象化するなど、手近に触れられる楽しい絵画的表現としてイラストレーション広く受け入れられ才能流入し多様化した一方で1982年には横尾忠則が「画家宣言」を行うなど、濫造されポップに消費されるイラストレーション飽き足らず逆に美術の側へと越境する動き見られイラストレーションという概念曖昧化が進行した1990年代はこうした状況加え成長続けていた日本経済転換や、メディアの多様化なども手伝い1992年には長らく権威的存在であった年鑑日本のイラストレーション』が刊行停止し登竜門も『イラストレーション』誌のコンペティション「ザ・チョイス」を残すのみになるなど、活動領域拡大一方で表現としてイラストレーション像は拡散流動化進んでいる。

※この「日本のイラストレーション」の解説は、「イラストレーション」の解説の一部です。
「日本のイラストレーション」を含む「イラストレーション」の記事については、「イラストレーション」の概要を参照ください。

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