新戦車の模索と開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 16:41 UTC 版)
当初は、登場早々に第2世代主力戦車の登場を受けて、火力不足が指摘されていた61式戦車の火力強化を行った61式戦車(改)の試作開発も提案されていた。同時に当初から105 mm砲を搭載した新戦車の開発を行うべきとの主張が生まれ、防衛庁や関係各局、指揮運用担当者との協議が行われた。61式(改)の様に砲を強力なものに交換するということは、諸外国でも行われるものであったが、重量の増加に伴う機動力の低下や発射速度の低下など、総合戦闘力はかえって改悪されることもしばしばであるとして、1965年(昭和40年)から基礎研究を開始することが決定する。 1950年代には成形炸薬弾を用いた対戦車兵器が進歩し、「戦車無用論」も一時は広まった。後に高初速の砲弾や複合装甲の登場により、成形炸薬式兵器の優位は崩れたが、当時の日本における複合装甲は未だ試行錯誤の段階であったため、低シルエットと徹底した避弾経始を採用することとなった。特に低車高化については力を入れ、実寸大模型を製作し研究が行われた。結果として74式戦車の車高は無砲塔型であるStrv.103を除くと、第2世代主力戦車の中でも低いものとなっている。 装甲材には単純な防弾鋼を採用しており、同様の思想で設計されたレオパルト1、AMX-30と共通した外観を持つ。対戦車ミサイルなどの対戦車兵器については、装甲で受け止めて防ぐのではなく、流線的装甲による避弾経始と機動力で被弾そのものを回避するのが74式を含めた第二世代主力戦車の運用思想だった。 エンジンについては、1965年(昭和40年)から新たに高出力の空冷ディーゼルエンジンを開発することとされた。1960年代当時、同盟国のアメリカ軍や西側諸国が配備していたM60中戦車には空冷ディーゼルエンジン(コンチネンタル AVDS-1790)が採用されており、M48中戦車やM103重戦車などの既存戦車に対しても同型の空冷ディーゼルエンジンに換装する改修事業が推進されていた。 既に61式戦車の際に開発に成功していた空冷ディーゼルエンジンが存在していたが、目標とされた400馬力級の小型軽量エンジンの要件は満たしていなかった。そのため三菱重工業の高速艦艇用2サイクルディーゼルと太平洋戦争中に培った空冷技術をもとに新たなエンジンを開発することとされ、1967年(昭和42年)に10ZFディーゼルエンジンとして完成した。 トランスミッションは1964年(昭和39年)より開発が始まり、1967年(昭和42年)にMT-75操向変速装置として完成した。オートマチックトランスミッションでなくセミオートマとなったのは当時の技術的な遅れが原因との指摘もあるが、開発の際にトルクコンバーターを用いることは伝達効率が低い(加速能力などに影響する)という理由でなるべく避けられており、一次変速部と二次変速部は遊星歯車機構を用いた二重差動操向式(クロスドライブ式)となっている。変速操作はパワーシフト式であり、発進及び停止時以外のクラッチ操作は不要である。 射撃管制装置にはレーザー測距儀や弾道計算コンピューターなど、当時の世界最高レベルの最新技術が盛り込まれた。車体の挙動に影響されず主砲の照準を保持する安定化装置(スタビライザー)の開発では、砲塔を駆動する油圧システムとジャイロの電気信号で制御される安定化装置の制御が、開発の上で特に困難だったとされている。
※この「新戦車の模索と開発」の解説は、「74式戦車」の解説の一部です。
「新戦車の模索と開発」を含む「74式戦車」の記事については、「74式戦車」の概要を参照ください。
- 新戦車の模索と開発のページへのリンク