撮影のさなかの債務・躁鬱病との闘い
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「田宮二郎」の記事における「撮影のさなかの債務・躁鬱病との闘い」の解説
1977年(昭和52年)12月に入ると、躁状態に入った田宮は入れ込んでいたドラマ化への関心が薄れ、いかがわしいビジネスに熱中し始める。また、同時期に事務所として南麻布のマンション4部屋を購入し、その代金2億円超を借金で賄おうとしていた。田宮の事業熱が収まらないまま、ドラマ『白い巨塔』は1978年(昭和53年)3月26日に撮影開始。ロケーション現場の病院を自ら手配するなど、高いテンションで撮影に臨み、6月3日放映の初回は視聴率18.6%と好調にスタートした。一方で私生活は荒れ、執拗(しつよう)な債権取立ての中で、妻に不動産などの書類の引渡しを求めて激しく言い争うようになっていた。ドラマ撮影現場でも次第に彼の不遜な態度に対して不安が広がり、スタッフがその火消しに躍起になったという。さらには「ウラン(一説には石油だとも言われている)の採掘権を取得した」と主張して突如トンガへと1週間出かけ、あわや撮影中止になりかけることもあった。また、撮影開始の辺りから田宮企画に会社ゴロから頻繁に金品要求があり、「金を払わないと山本陽子との不倫関係をマスコミに漏らす」「新ドラマの宣伝をしてやる」といった内容の電話がかかるようになり、6月には田宮から相談を受けていた警視庁が捜査に乗り出す展開にまで発展した(捜査の結果、立件には至らなかった)。 第18話まで撮影したところで撮影は1カ月の休暇に入り、田宮は7月29日にロンドンへ旅行に出発。戻って来ないのではないかという周囲の心配をよそに9月8日に帰国したが、その時に田宮は鬱状態に入っていた。9月17日から後半の収録が始まったが、テンションが高かった旅行前とは一転し、田宮は泣き崩れてばかりでセリフが頭に入らなくなっていた。妻やスタッフが必死に彼を励まし続け、共演者の協力もあって撮影は11月15日に無事終了。財前五郎の死のシーンに際して、田宮は3日間絶食してすっかり癌患者になりきり、財前の遺書も自らが書き、それを台本に加えさせた。さらに、全身に白布を掛けられストレッチャーに横たわる遺体役をスタッフの代役ではなく自分自身でやると主張してストレッチャーに乗った。収録後には「うまく死ねた」とラストシーンを自賛したという。 この時期の田宮の奇行に関しては、女性週刊誌などに都市伝説として複数の記事が掲載された。一つはいわゆるM資金詐欺にだまされ、巨額の借金を負っていたという説。また、現実と役柄の境界が不明瞭となり、航空機にて急病人が出て乗務員が医師を捜すと、たまたま同乗していた田宮が「医師の財前だが」と名乗り出たというもの。さらに、友人に電話で「12チャンネルを買い取った」と発言したり、自宅を訪れた芸能記者に対し、電話機を指差しながら「この電話はCIAと直につながっているのですよ」と述べたという話もある。息子の柴田光太郎は2009年(平成21年)、『スーパーモーニング』(テレビ朝日)に出演した際に金銭問題を含めた醜聞の内容の大半を否定している。 しかし、2013年(平成25年)に『週刊現代』の企画で行われた山本學・生田悦子・柴田光太郎による鼎談(ていだん)で、『白い巨塔』収録中に田宮が頻繁にM資金取引の電話をしていたことを、財前五郎の妻役で出演していた生田が証言している。生田によると、田宮は撮影の合間によくフジテレビの食堂で電話をかけていたが、使用していたのは10円玉しか入れられないピンク公衆電話であり、生田は田宮からの要請で通話中は両替に走っては傍で通話用の10円玉を手のひらに載せて立っていたため、通話内容がはっきりと聞こえたという。これを見かねて田宮にM資金の支払いを諦めるよう説得すると、「できない。来年(1979年〈昭和54年〉)になったらどうにかなるよ。でも、来年はないかな」と死をほのめかす返答をしたため、生田は怖くなってプロデューサーの小林俊一に相談したという。
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