性格・態度について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:08 UTC 版)
「バリー・ボンズ」の記事における「性格・態度について」の解説
大学時代からチームメイトを選り好みし、1A時代のルームメイトは彼の不遜な態度に業を煮やして同居を拒否し、また他のチームメイトも陰口を叩いていたという。 マイナー時代、パイレーツにドラフト1巡指名(全米6位)を受け、ルーキーイヤーに1Aのチームに合流した初日、監督室にノックもせずに勢いよくやってきて「俺はバリー・ボンズ。ドラフト1位選手だ」と不躾な自己紹介をした。当時の1A監督であったエド・オットーはそんなボンズの顔を睨み付け、「私はエド・オットーでお前さんの監督だ。それが分かったなら、とっととこの部屋から出て行きやがれ。それにノックする気がないのなら、二度とここには入ってくるな!」と怒鳴りつけたという。 オットーの新人教育は厳しく、大事な試合でも守備で怠慢プレーを見せた時には容赦なくベンチに引っ込めることもあった。しかし、大学時代からボンズを甘やかしたといわれる実父ボビーとは違う厳格な接し方は次第にボンズの尊敬を勝ち取っていき、シーズン終盤にはオットーと20分の予定のミーティングを2時間にまで伸ばして話し込む間柄になっていたという。また、オットーによってクラブハウスでの礼儀作法やメディア対策を伝授されたという。 パイレーツ時代に左中間コンビを組んでいたバンスライク、更にジャイアンツ移籍当時の三塁手マット・ウィリアムスはベテラン選手にも軽口をたたくボンズをチームメイトの前で怒鳴りつけたこともある。1997年から2002年までの間3・4番コンビを組んでいたケントとは犬猿の仲で、お互いに試合におけるパフォーマンスは認めていたものの、しばしば口論する姿が見られており、2001年にはベンチで掴み合いの乱闘をする姿を公に晒している。 ロッカールームでは隣り合うロッカーの他、専属トレーナーにもロッカーを割当ててシャワールームに一番近い壁際のロッカー全てを自分で占めており、自分専用のソファーと大型テレビも置いてこの専用ソファーにチームメイトが勝手に座った時、そのチームメイトを怒鳴りつけたことがある。 「投手がMVPになるということは野手に対する侮辱である。ワールドシリーズでMVPを取れば良いじゃないか」、「ルースの頃は白人しかいなかったんだから基本的に認めていない。MLB史上最強の打者は俺だ」などの発言もある。 ジャイアンツにFA移籍した初年度のスプリングトレーニング初日、彼はクラブハウスに到着するなり、各ピッチャーを指差して、「お前にも、お前にも貸しがある」と言い続けたといわれている。「貸し」というのは、パイレーツ時代に打ったという意味で、それはボンズ流の一風変わった自己紹介だった。 2001年4月17日に通算500号本塁打を達成した後日、パイレーツ時代のGMだったシド・スリフトから祝福の電話を貰った時には「あんたが早く俺をメジャーに引き上げてくれていたら、(500号に)もっと早く到達できたんだがね」と言い放ったという。 このようなことから、多くのチームメイトは彼の不遜な態度に不満を漏らしており、チーム内でも孤立しがちであるとされる。しかし、全米の注目を一身に浴びる中で放った新記録の756号となると話は別であり、先述のようにチームメートはもとより地元のファン、相手チームまで球場一体となって祝福ムードに沸いた。 ボンズはマスコミ嫌いでもある。不振に陥っている時のロッカールームでのインタビューでは記者が凍り付いてしまうほどの緊迫した雰囲気であり、質問に対しての受け答えにおいても放送禁止用語が混ざってしまうこともあるほど。本国アメリカでは多くのマスコミを敵に回しているため否定的な報道が多いが、「死んでからでないと認めてもらえないのか」と涙を流したこともあったという。1990・1992・1993年とMVPを獲得するパフォーマンスだったにもかかわらず、1991年にMVPを逃したのは記者との対立のため投票で不利になったためとも言われている(この年MVPを獲得したのは打率.319・本塁打22・打点86・盗塁10のテリー・ペンドルトン。ただし、彼は前年最下位のチームに移籍してきて中心選手としてワールドシリーズ進出に貢献したことも評価されている)。 1998年のマーク・マグワイアとサミー・ソーサのシーズン最多本塁打記録争いの時に、ソーサにつくマスコミが少ないことや新記録のセレモニーに差があったことについて、彼が黒人だからではないかと各所で物議を醸したが、ボンズも人種差別と指摘した一人である。 前述の名付け親でもあるウィリー・メイズを尊敬している。パイレーツ時代までは彼と同じ背番号24をつけていた(ケン・グリフィー・ジュニアの背番号24も同じ理由である)。ジャイアンツへの移籍の際に、背番号として既に永久欠番になっていた24を付けたいと言ったのは前述の通り(その際も周囲から顰蹙を買ったという)。2007年のオールスターゲーム前のセレモニーにメイズが登場した時も隣に寄り添っていた。 時にユーモラスなジョークなどを言ったりもする一面もある。歴代本塁打記録の更新が注目された2007年には記者にそのことを問われると、ポツリと“もっとバントをしなきゃな(I've got to bunt more)”と言ったり、友人・知人が少ないことで知られているボンズが、2007年は新人のフレッド・ルイスを弟のように可愛がっており、そのルイスが満塁本塁打を独立記念日に打ったり、母の日にサイクル安打を達成したりすると、“祝日にだけ打つつもりかよ(Are you just going to hit on holidays?)”などとからかったりした。 友達想いの優しい一面もある。2001年9月28日、マグワイアの持つシーズン70本塁打の記録を目指していたボンズはサンディエゴ・パドレス戦で68号を放ってダイヤモンドを1周した。本塁打を打った後天を指差すパフォーマンスで知られているが、この時はいつもよりとりわけ長く天を指差した。その後ベンチに戻ると泣き出してしまった。試合後の記者会見では「今日のホームランを亡くなったばかりの友人フランクリン・ブラッドリーに捧げる」と語った。亡くなったブラッドリーは10年来ボディガードを務めた親友でもあった。前日の9月27日に"ありきたりの"外科手術を受けて、合併症を引き起こして亡くなったというのだった。"ありきたりの"手術と形容したが、ブラッドリーが受けた手術とは、肥満治療のための消化管手術だった。アメリカでは肥満の外科治療が大流行しているからこそ、"ありきたりの"手術と形容したのだが、手術費用は2万5000~3万ドルと言われている。無保険者にとっては簡単に払える金額ではなく、体重400ポンド(約180kg)と肥満に苦しむ友が治療を受けられるようにと手術費用を援助していたのだった。
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