幸地の戦い
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幸地の戦闘 http://okinawa-senshi.boy.jp/kochi2008.htm 4月22日から陣地転換が行われ22連隊は連隊本部を幸地に移した。首里には日本軍守備隊の総司令部があったが、首里北方を守備する第62師団が、実質的に壊滅したことによる大幅な作戦変更であった。22連隊は第24師団に復帰し、首里北方の幸地(米称ゼブラヒル:現 中頭郡西原町アドベンチストメディカルセンター付近)に全面展開して、アメリカ軍と激戦を交える。 22連隊は、第24師団の中央に展開し、右翼は北海道歩兵第89連隊、左翼は山形歩兵第32連隊が担当した。上級司令部からは、さらに前進して敵陣地奪取を命じられたが、22連隊長吉田勝中佐(士32期 北海道出身)は彼我の兵力差を考慮して、より現実的な持久戦案を意見具申し、これが認められた。対戦するアメリカ軍は、第77歩兵師団、第96歩兵師団であり、短期攻略を目論み次々と侵攻してきたが、22連隊は地形を生かした防御戦闘により善戦した。ここでは激戦として著名な「幸地の戦い」が繰り広げられた。 4月24日、第1大隊長鶴屋少佐は、第3中隊陣地で敵情偵察中に艦砲射撃によって戦死し、26日に小城正大尉(士54期 鹿児島県出身)が引き継いだ。第2大隊が展開する伊祖丘陵にはアメリカ海兵隊の戦車の大群が襲来した。第2大隊第5中隊の山之内敏夫中尉(愛媛県周桑郡出身)は、仁王立ちで睨み据えると、振り返って「生命を大切にせいよ。最後までご奉公するんだぞ。」と傷だらけになった部下一人一人の手を握って言い渡したのち、自ら急造爆雷を抱きかかえて敵戦車に体当たりを敢行した。山之内中尉の戦死により、第2大隊は石嶺に後退を命じられ、負傷兵は首里鳥堀の患者収容所に運ばれた。第11中隊の佐伯清之曹長(愛媛県周桑郡出身)、連隊砲中隊の吉良駿治准尉(愛媛県南宇和郡出身)らが戦死した。 4月26日、22連隊は幸地に健在であった。第1大隊は米軍の砲撃により大損害を出しつつもアメリカ第7師団の攻勢を阻んでいた。第1大隊長小城大尉は、敵のロケット弾の猛射を浴びここで半数以上の部下を失う。しかし、小城大尉は、大隊に配備されている36個の八九式重擲弾筒を集中射撃で応戦し続けて米軍の進撃を阻止していた。アメリカ第7師団は、軍団長から「もっと強烈な攻撃をしろ。」と、厳命を受けていた。幸地、小波津地区では、機関銃と迫撃砲約12門の集中射撃によって、米軍の攻勢を防ぎきった。22連隊は、大きな損害を出していたが、対戦するアメリカ軍の損害はそれを上回っていた。 4月27日、沖縄は雨期に入ったように雨が降った。22連隊は、歩兵第32連隊の援護と前田高地の奪還を命じられたが、アメリカ軍の攻勢の前には、机上の空論であった。戦線は交錯し、アメリカ軍は、航空機や砲撃による同士討ちで、兵士60名以上の戦死者を発生していた。この頃の日米両軍の激戦は、映画ハクソー・リッジに描写されている。22連隊の正面には、敵戦車20数両と2500~3000名の敵が攻め込んできたが、機関銃中隊の八幡勇少尉(愛媛県松山出身)は、銃身が焼け付くほどに奮戦して守り切った。巧妙に配置されていた12丁の九二式重機関銃の連射は、前進してくるアメリカ軍の将兵をなぎ倒した。第2大隊第5中隊は約7割が死傷して残り約50名に減少し、指揮を林繁昌准尉(愛媛県松山出身)が執って戦い続けていたが、林准尉も戦死した。 4月30日、日本軍の前線部隊は、夜襲を実施した。歩兵第32連隊伊東大隊は146高地を夜間攻撃して奪回に成功した。歩兵第89連隊深見大隊の120高地の奪回は失敗した。22連隊は、第2大隊を攻撃準備させたが、出撃はしなかった。30日朝には、米軍は戦車を伴い反撃したが、日本軍は速射砲、野戦高射砲を用いて防衛に成功した。陣頭に立って戦い、部下には「死に急ぐなよ」と言い聞かせていた尺八の名手、鈴鹿喜四郎准尉(愛媛県周桑郡出身)が戦死した。第1大隊の栗林栄少尉(愛媛県松山出身)も負傷し後送された。 5月1日~3日、幸地では、米軍の火焔放射戦車を含む部隊と交戦し、霧雨にも助けられ、迫撃砲と手榴弾の集中投擲で撃退した。この時、22連隊第11中隊長 木口恒好大尉(士55期 愛媛県八幡浜出身)は、第1大隊長小城大尉に「大隊長!あのへんで、敵の戦車がうろうろしているから、私が行ってやっつけてきますから、やらしてください!いいですか?」と自ら志願し、兵士2,3人を連れて敵陣に潜入し、敵の戦車を爆砕した後、無事生還して、22連隊の士気を高めた。 5月2日、歩兵第64旅団独立歩兵第13大隊に配属されていた第3大隊は、安波茶で22連隊復帰の命令を受領した。
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