平沢大暲
平沢貞通
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平沢 貞通(ひらさわ さだみち、1892年〈明治25年〉2月18日 - 1987年〈昭和62年〉5月10日)は、日本のテンペラ画家。北海道小樽市出身[1](東京府生まれ)。雅号は大暲(たいしょう)、後に光彩(こうさい)[2]。
- ^ 「20世紀日本人名事典」日外アソシエーツ、2004年
- ^ a b 「平沢貞通、燃えつきた執念 最後まで『シャバで一杯』」 朝日新聞1987年5月11日朝刊
- ^ a b c d e f g h i j 遠藤誠『帝銀事件の全貌と平沢貞通』(現代書館、2000年)「第一章 平沢貞通さんの半生」 ISBN 4-7684-6779-2
- ^ 「われ、死すとも瞑目せず」、203頁。
- ^ a b 福島章・中田修・小木貞孝編『日本の精神鑑定 : 重要事件25の鑑定書と解説1936-1994』(増補新版、みすず書房、2018年)。同書p.267-p.332の内村祐之・吉益脩夫「帝銀事件」は、内村祐之・吉益脩夫「脱髄脳炎後の空想虚言症とその刑事責任能力について」(『精神神経学雑誌』59巻5号、昭和32年=1957年) https://ci.nii.ac.jp/naid/40017966715 の主要部分を転載したものである。
- ^ a b c 「誤判の生贄 ~魂の画家 死刑囚・平沢貞通~」(北海道放送、プロデューサー:五十嵐浩二)日本民間放送連盟賞 2003年 テレビ報道・優秀賞受賞
- ^ 出典「今から100年前「大正時代」はどんな時代だった?物価は?初任給は?」 https://www.jibunbank.co.jp/column/article/00251/ 2021年6月27日閲覧
- ^ a b c d 平沢マサ『愛憎を越えて―宿命の妻・平沢マサの手記』(都書房、1949年3月30日発行)
- ^ a b c d 鎌田りよ『生命ある限り』(公論社、昭和25年8月刊)
- ^ 田は共同通信社の記者時代に帝銀事件を手がけていた。
- ^ a b c 「帝銀事件の平沢貞通死亡 95歳死刑囚、獄中に39年」 朝日新聞1987年5月11日朝刊
- ^ 後に袴田事件・マルヨ無線事件・名張毒ぶどう酒事件・ピアノ騒音殺人事件の死刑囚が記録を更新している
- ^ 平沢武彦は「平沢が95歳、獄死し、葬儀の際、平沢の親族は一人もこなく、寂しい思いで参列者に頭をさげていたが(下略)」(「帝銀事件活動日誌・音楽プロジューサーの酒井政利さんとの再会-平沢武彦」2000年12月15日の書き込み)と書いている。
- ^ 『明治大学平和教育登戸研究所資料館 館報 第5号 2019年度』p.96
- ^ 『財界人』2007年8月号、p.80
- ^ 「第43回国会 衆議院 法務委員会 第18号 昭和38年5月31日」015 赤松勇 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/104305206X01819630531/15
- ^ ウイリアム・トリプレット(著)、西岡公 (訳)『帝銀事件の真実―平沢は真犯人か?』(講談社、1987年)、p.221
- ^ ウイリアム・トリプレット(著)、西岡公 (訳)『帝銀事件の真実―平沢は真犯人か?』(講談社、1987年)p.96-p.97
- ^ 「第19次再審請求の最中に孤独死していた『平沢貞通』養子」、『週刊新潮』2013年10月17日号、pp.39-40
- ^ 清野由美「プロデューサー 酒井政利(現代の肖像)」『アエラ』1998年4月13日号、p.53。および、「帝銀事件平沢貞通の隠し子は、あの酒井政利? (総力特集 私だけが知る時代の主役60人 今こそ本当の話をしよう)」『週刊文春』2001年新年号、pp.29-30、2001年1月4日
- ^ 川本不二雄『未完の告白―平沢貞通懺悔録』(蜂書房、1948年11月15日発行)
- ^ 「改心させられた強盗が捜す紳士は今は発狂」東京朝日新聞 大正15年4月2日
- ^ a b 「報道特集「もうひとつの再審請求 帝銀事件・絵探しの旅」放映決定2007年12月2日(日) 午後5時半より TBS系列局」2021年3月31日閲覧
- ^ 2007年10月3日(水)~10月8日(月)に開催された「北海道小樽 平沢貞通没後20年「絵探しの旅展」開催のお知らせ―半世紀の間、闇に葬られてきた平沢の絵に光を―」の説明より。2021年3月31日閲覧
- ^ 中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」―法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』2008年刊による。(細川次郎 2019, p. 79-101)では、字句はやや違うものの、同じ言葉を載せている。それによると、東京拘置所の看守・M(原典では実名表記)は平沢貞通の1周忌の席で「平沢さんが私にこう話したことがある。『自分が帝銀事件の犯人の汚名を着せられて死刑にされること自体は、交通事故で毎年1万人以上の人が命を落としていることを考えれば、まだ諦めがつく。けれども、俺の子や孫が、帝銀事件の平沢の子だ!、孫だ!と言われて、世間から痛めつけられていることを思うと、俺は死んでも死に切れない。何としても再審で無罪を勝ち取らなきゃならないんだ』。それを聞いた時、私は涙が出そうになりました」と明かしたという。
- ^ コラム 帝銀事件とは何だったのか-50 Vol.50 原渕 勝仁さん
- ^ 「(ひと)平沢武彦さん 獄死した平沢貞通の養子」 朝日新聞1987年5月22日朝刊
- ^ 「コラム 帝銀事件とは何だったのか-35 Vol.35 原渕 勝仁さん」に「再審請求人の平沢武彦氏は2013年10月1日、一人暮らしの自宅で孤独死しているのを発見されている。発見したのは、このわたくしである」とある。2021年3月31日閲覧
- ^ 帝銀事件・平沢元死刑囚の養子?死亡 東京の自宅で朝日新聞デジタル 2013年10月2日
- ^ 勢藤修三『死刑の考現学』三省堂、1983年
- ^ 俵孝太郎『政治家の風景』学習研究社、1994年
- ^ 細川次郎 2019, p. 88.
- ^ 石井敏夫『平沢貞通と一店主の半生―改めて、再審を訴える』(つげ書房新社、1997年)pp.105-110
- ^ 遠藤誠『帝銀事件の全貌と平沢貞通』現代書館、2000年、p.16 ISBN 4-7684-6779-2
- ^ 遠藤誠『帝銀事件の全貌と平沢貞通』p.129およびp.135より引用。ISBN 978-4768467794
- ^ 大河内秀明 著『無実でも死刑判決、真犯人はどこに』1998年、現代企画室。349ページ。
- ^ 国会会議録検索システム「第140回国会 参議院 予算委員会 第10号 平成9年3月14日 465 原田明夫」によると、藤永は自身の発言について「そのような趣旨で発言したものではない」と明確に否定した。新聞社の記者たちも、あらためて幅広く取材をした結果「法務省内でそのようなこの事件について事実認定に問題があるというような観点から論議のあったことはなかったということについてはぼ確信に近いものを持った」。
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