展開と瓦解とは? わかりやすく解説

展開と瓦解

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/30 03:51 UTC 版)

三国同盟 (1788年)」の記事における「展開と瓦解」の解説

イギリスはあまり戦争望んでおらず、事を荒立てずロシア軍オスマン帝国から撤退して戦争前の原状回復を行うことを求めていたが、次第にこれが困難であることに気付いた1790年8月以降イギリスプロイセンの駐ロシア外交官たちはロシア政府圧力をかけてオスマン帝国から撤退させようとしたが、うまくいかなかった。 イギリスウィリアム・ピット(小ピット)政権ロシアに対して強硬姿勢取ってきたこと、また三国同盟戦え自国負けであろうことを理解していたロシア女帝エカチェリーナ2世は、駐ロンドン大使セミョーン・ヴォロンツォフに、小ピットライバルであるチャールズ・ジェームズ・フォックス支援するよう命じたヴォロンツォフらは積極的な買収策によって、イギリス議会内に多く支持者作ることに成功したネーデルラントは、さらに対ロシア戦に消極的だったロシアネーデルラント金融家たちにとって大口の債務者であり、対ロシア戦は債権回収危うくするものでしかなかった。イギリスの駐ネーデルラント大使初代オークランド男爵ウィリアム・イーデンは、ロシア外交官たちと親しかったこともあり、ロシア敵対するようなあらゆる行動反対した。 さらにイギリスは、対ロシア戦略の要となりうるポーランド・リトアニア共和国との関係構築にも失敗したポーランド四年セイムでの改革遂行のためにロシア支援頼みとしており、三国同盟接近することを望んでいなかった。そして1790年第一次ロシア・スウェーデン戦争終結しスウェーデン王グスタフ3世再開戦を否定したことで、三国同盟またもや対ロシア戦の潜在的な協力者を失うことになった1791年2月ごろ、プロイセンオーストリア合意結んだオーストリア三国同盟側への加担こそ拒んだものの、三国同盟ロシアの間で戦争起きた際には中立を守ることを約束した。これを受けてイギリスピットは、バルト海艦隊派遣することと、ロシアへ最後通牒政策取り掛かることをプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世約束した。これは、ロシアオスマン帝国から手を引かなければイギリスプロイセン軍事介入する、というものであったピットの案は3月下旬に王の認可を受け、ただちに議会での審議かけられた。一方フリードリヒ・ヴィルヘルム2世も、3月初旬オスマン帝国の代表に書簡送り、まもなくプロイセン露土戦争介入すること、バルト海イギリス海軍展開するであろうことを伝え戦争継続しバルカン半島攻勢に出るよう求めたプロイセンは本気で開戦備え、9万人もの軍勢国境配置し三個軍団リガ進撃させる計画立てていた。ロシア側も、バルト海防備固めて戦争備えていた。 一方開戦可否議論されていたロンドンでは、ロシア外交官たちが何とかして英露開戦否定的な派閥組織させて審議妨害しよう奔走していた。彼らは莫大な資金投じて外交運動プロパガンダ展開した。実に20紙ものイギリスの新聞ロシアになびき、ロシア軍脅威訴え小ピット非難するリーフレット大量に作成したロンドン証券取引所影響力を持つ商人や、ジョン・パラダイス(ドクター・ジョンソン)のような作家学者ロシア支持した。そして議会内では、トーマス・ディムズデール、チャールズ・ジェームズ・フォックスエドマンド・バークといった数々議員抵抗示したイギリスでの論争先んじてネーデルラントでは既にロシアとの交渉始まっていた。駐イギリス大使イーデンは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世戦争必要性懐疑的でありオーストリアの軍事動向を気にかけているという旨の文書読んだ本国報告したポーランドの歴史家イェジ・ウォイェクは、この情報イーデン自身またはロシア外交官が、またはその双方流したデマであったとしている。イギリス議会での審議3月29日始まった。チャールズ・フォックスら少数派批判はあったものの、庶民院対ロシア戦争承認した。しかしわずか2,3日のうちに、ピット政権大幅な方針転換余儀なくされた。政権内で起きた内紛状況はよく分かっていないが、ウォイェクはこれがフォックスイーデン、そしてロシア外交官たちの暗躍によるところが大きいとしている。ピットは再組閣することで挽回図ったが、根本的な解決はならず英政府混迷の末に予想だにしなかった変革迎えることになった4月中旬から下旬にかけて、対露強硬派の第5代リーズ公爵フランシス・オズボーン代わり初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィル外務大臣に就任したのである。これ以降イギリス外交逆転して親露反仏路線とっていくことになる。 対ロシア最後通牒携えた使者は既にロンドン発っており、4月3日夜にベルリン到着した。しかし彼がロシア向かおうとしていた8日新たな使者ロンドンから到着し、前の使者ロシアへ通達延期させた。6月初頭プロイセンは、イギリスの政治転換し、もはや対ロシア戦争望んでいないことに気づいた。これを持って三国同盟意義消滅した

※この「展開と瓦解」の解説は、「三国同盟 (1788年)」の解説の一部です。
「展開と瓦解」を含む「三国同盟 (1788年)」の記事については、「三国同盟 (1788年)」の概要を参照ください。

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