展開と相互交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 17:08 UTC 版)
ドイツ観念論はその成立過程から、一人の思想家による単独での思索の成果ではなく、むしろ当時の哲学者らによる様々な意見交換・批判などの交流によって展開した。その出発点にはカント哲学によって開かれた超越論的自我とその働きによる世界の把握がある。ここから、カントの哲学が厳しく分断した認識と物自体の統一を「信仰」という概念にもとめたフリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ、実践理性と理論理性との統一を「自我」概念に求めたヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フィヒテの絶対的自我の立場の盲点ともいえる「自然」という問題をも体系に取り入れ、自然を自我(精神)の超越論的前史としたフリードリヒ・シェリング、こうしたシェリングの精神と自然をも同一にしうる絶対者からでは差別された有限的な存在を導き出せないとしたゲオルク・ヘーゲルの哲学が、相互の協同と論争の流れのなかで展開していった(詳しくは各思想家の項を参照のこと)。この流れの中にも、さらにカール・レオンハルト・ラインホルト、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーらといった多くの思想家との交流と論争が加わり、またロマン主義と呼ばれた同時代の芸術・文学現象との交流があり、ドイツ語圏を蔽う巨大な思想運動が展開したのである。そのような交流の場となったのが、フィヒテやシェリングがヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテにイェーナ大学の教授陣として招聘されたイェーナであり、フィヒテ、ゾルガー、シュライヤーマハー、後にはヘーゲルやシェリングが大学で教鞭をとったベルリンであり、あるいはヤコービやシェリングが王立アカデミーの、のちには大学のスタッフを勤めたミュンヘンであった。 しかし、交流は決して快い結果ばかりを生み出したわけではない。フィヒテは感激をもってカントを訪れ、カント哲学を発展させたと自負したが、カントとフィヒテの間柄は良好ではなく、カントはフィヒテを自分の哲学を誤解している人物として非難した。シェリングとフィヒテはイェーナ大学の同僚として親しみ、共同の哲学雑誌の出版を構想したが、自然概念をめぐる二人の哲学的立場の対立は、互いの哲学上の立場を理解しないままに、苦々しい言葉の応酬となって終わった。シェリングとヘーゲルは神学校からの長い交流があり、ヘーゲルは、シェリング哲学の擁護者として最初の本『シェリング哲学とフィヒテ哲学との差異』を出版し、二人はイェーナで1802年から1803年のあいだ哲学雑誌を共同で出版した。しかし、10年とたたないうちに、1807年ヘーゲルは『精神現象学』序言で「すべての牛を暗くする闇夜」という比喩で、痛烈にシェリングの絶対者把握を批判し、二人の友情は断絶するに到る。以後二人の間には、互いの哲学を真っ向から批判しあう、教壇上の言説の対立があるばかりであった。また、ヤコービとシェリングの間にも神概念をめぐる論争がある。フリードリヒ・シュライアマハーとヘーゲルの宗教哲学は対立し、ベルリンでは二人が論文の審査をめぐって決闘したという風評が流れた事さえあった。さらに、若い私講師アルトゥル・ショーペンハウアーは、ヘーゲルに挑み同じ時間に講義を開講して、結果生涯ヘーゲルを呪詛しつづける事になる。テュービンゲン神学校を出てすぐのシェリング、ヘーゲル、フリードリヒ・ヘルダーリン三人の若い牧歌的な書簡のやり取りを除けば、ドイツ観念論の壮麗な体系の下には私怨をも伴った激しく苦い論争の地層が厚く横たわっているのである。
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