展開と結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 05:43 UTC 版)
上述の通り、レーガノミクスの主軸は軍事費の増大を通じて政府支出を増大することと、減税・規制緩和・インフレ収束であった。具体的には次のような理論である。 軍事支出の増大により、経済を発展させ、「強いアメリカ」を復活させる。 減税により、労働意欲の向上と貯蓄の増加を促し投資を促進する。 規制を緩和し投資を促進する。 新金融調節方式によりマネーサプライの伸びを抑制して「通貨高」を誘導してインフレ率を低下させる。 この政策群の理想的展開は、「富裕層の減税による貯蓄の増加と労働意欲の向上、企業減税と規制緩和により投資が促され供給力が向上する。経済成長の回復で歳入が増加し税率低下による歳入低下を補い歳入を増加させると共に、財政出動を行う。インフレーションは金融政策により抑制されるので歳出への制約は低下する。軍事支出の増大により『強いアメリカ』が復活する。」というものである。 経済学者の伊藤修は「大幅減税と軍事費(財政支出)の増大によって、反ケインズ主義の思想に立ちながら結果、ケインズ的な需要刺激策となった」と指摘している。 実際の展開は想定とはかなり異なった。1970年代末からすでに金融政策はインフレ退治に乗り出しており、政権発足時にはかなり高金利になっていた。そこに、軍事支出の増大 と減税をセットにした大型の財政政策が発動されることになったため、高金利はいっそう拍車がかかった。 この高金利は民間投資を停滞させると同時に日本などの外国資金のアメリカへの流入を促進し、その為替レートをドル高に導いた。ドル高は輸出減退と輸入増大をもたらし、インフレ率の低下へつながった。財政赤字の増大はこのようにして民間投資の減少と経常収支赤字によってバランスされインフレーションへはつながらなかった。 失業率は1980年の7.1パーセントから1982年には9.7パーセントに増大したが、1988年には5.5パーセントに減少し、失業者数は1980年の827万人から1983年には1071万人に増大したが1988年には670万人に減少した。連邦政府機関の雇用者は1980年の497万人から1988年には536万人に増大し、軍人以外の連邦政府機関の雇用者数は1980年の287万人から1988年には311万人に増大した。 1982年中にインフレ率の低下から高金利政策は解除段階に入った。1983年に景気回復が始まったが、軍事支出の増大 と減税という財政政策を受けた消費の増大(乗数効果)が主因であった。税率を引き下げていたためこの経済回復の最中でも歳入はそれほど増加せず、SDIに代表される軍事歳出の増大 により財政赤字が増大した。ドル高の持続と景気回復によりさらに経常赤字が増大した。経常赤字が貯蓄投資バランスの不均衡を受け止めたため、また原油価格の大幅の下落という要因も加わり、インフレも顕在化することは無かった。なおレーガン政権は「アメリカ経済は復活した」として、政策の効果を主張した。 1984年には失業率の低下や景況感の回復がさらに強まったが、経常赤字のますますの増大は日本とヨーロッパに、ハイテク製品による莫大な経常黒字「ハイテク景気」をもたらして諸外国へインフレを輸出しているとの批判を浴びることになる(日米貿易摩擦)。 1980年代に年度の通貨額ベースのGDPは1980年の2兆7240億ドルから1988年には5兆80億ドルへ1.84倍に増大した。 1985年9月にプラザ合意が形成され、為替相場は一気にドル安となった。1987年からは連邦準備制度理事会議長をポール・ボルカーからアラン・グリーンスパンに交代させ、企業の投資資金は高金利による株安から他の企業の買収合併へ向かい、株式ブームを生み出した。なお株式ブームは1987年のブラックマンデーにより終了した。しかし、この株式ブームはFRBの裁量により深刻な恐慌をもたらさなかったが、このことがアメリカ経済のFRB・金融政策依存と資産経済化をもたらすことになった。
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