尚書省
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尚書省 | |||||||||
中国語 | |||||||||
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繁体字 | 尚書省 | ||||||||
簡体字 | 尚书省 | ||||||||
文字通りの意味 | 秘書省 | ||||||||
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朝鮮語 | |||||||||
ハングル | 상서성 | ||||||||
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ベトナム語 | |||||||||
ベトナム語 | Thượng thư tỉnh |
尚書省(しょうしょしょう)は、中国で後漢から元代まで存在した省。唐の三省六部体制の元で中書省・門下省の取り決めた事を六部に伝える役割を果たした。
尚書省成立以前の背景
前漢には尚書は少府(皇帝の私的財産を扱う部署)に属し、上奏を取り扱う役職であった。皇帝に対し何らかの上奏を行いたいと思う者は正副二つの上表書を尚書に提出し、尚書は副の方を閲覧し、それが良くないと思えばこれを皇帝には上奏しないということが出来た。つまり上奏を皇帝に見せるか否かは尚書が決定するということであり、そのため絶大な権限を誇った。宣帝の時期、これを憂慮した魏相はこうした故事は皇帝の耳目を塞ぐものであるとして廃止するように求め、宣帝は魏相を給事中に任じた上で、この故事を廃止させた(『漢書』魏相伝)。
尚書省の成立と廃止
後漢代には尚書台として少府の下に置かれ、長官を尚書令(一名)・副長官を尚書僕射(二名)としている(尚書令の上に録尚書事と言う非常設の役職がある)。
魏・晋で尚書省と改称される。この頃には録尚書事が三公をしのいで実質的な宰相職となり、それまでの機密文書取り扱い業務は中書(中書令・中書監)が代わって担当するようになった。その後、中書は尚書と同じ理由で権限を増大させ、中書令が宰相として行政を担当するようになり、尚書省は実務機関となった。
南朝宋では尚書寺と改称されるが、南朝梁で尚書省に戻り、以後は変わらない。
隋・唐になり、三省六部制が確立すると中書省(詔勅の起草)→門下省(詔勅の審議)→尚書省(実行)という枠組みが出来上がり、長官は尚書令・副長官が左右の尚書僕射となり、六部の各長官が尚書と称される。ただし唐では太宗が尚書令に就いていた時期があるので、尚書令は空席とされ、左・右尚書僕射が長官となり、中書省長官の中書令・門下省長官の侍中と共に実質上の宰相職として政務に当たった。
その後、唐末から五代十国時代の戦乱の中で形骸化し、北宋では一旦廃止されるが神宗の元豊3年(1080年)に一旦復活し、左右僕射が門下侍郎・中書侍郎を兼任するようになり、高い権限を持つようになった(元豊の改革)。
金にも受け継がれて、初期に金が漢地を支配するに当たって行台尚書省を設けて統治していたのを海陵王が中書省・門下省を廃止して尚書省を皇帝直属機関とし、尚書令が宰相となった。
元では財政担当の部署とされていたが、その時に財政を担当する人物によって中身が入れ替わるような存在であり、何度か復廃が繰り返されて至大4年(1311年)以降は置かれなくなった。
明に入り、皇帝独裁を目指す洪武帝は六部を皇帝直属とし、間の尚書省は消滅した。
関連項目
尚書省
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「彩雲国物語の登場人物」の記事における「尚書省」の解説
鄭 悠舜(てい ゆうしゅん) 声:神奈延年 茶州州尹(州牧補佐)、尚書令と歴任する。出身地は紫州としているが、実は紅州。自ら志願して州尹となり(自主左遷)、9年間、浪燕青の右腕を務めた。茶州の問題が片付いた後、尚書令及び宰相に就任した。妻は柴凜。専従護衛官は茈静蘭。静蘭より碁が強い。優しく穏やかな人柄だが、かなりの無茶もする。自らを悪党、嘘つきと定義しているが、本当のところは自分でも自分のことがよく分かっていない。仕事量の管理は下手で、自分が過労になってもお構いなし、部下にも連日の泊まり込みを平然と命じる。すべてを終えたら死ぬつもりでいる。 悪夢の国試組の1人。紫州州試首席及第。紅黎深と黄奇人を抑えて状元及第した伝説の人物。黎深に頼み事や意見ができる数少ない人間の一人。過去に怒って黎深を殴ったことがあり、彼が怒ると黎深と奇人はいつも2人で先に謝りに来るらしい。まぐれながら黎深に大人しく仕事をさせた事で朝廷を震撼させる。 足が悪いが、これは生来のものではなく紅家を訪れた折に拷問と腱の切断を施されたため。歩くことはかろうじてできるが走ったりすることはできず、いずれ全く動かなくなるらしい。 出自が抹消されているが、凌 晏樹などごく一部の人間は知っている。本名は姫 悠舜(き ゆうしゅん)で、紅門姫家の唯一の生き残りにして当代「鳳麟」。約30年前、姫家が戩華に滅ぼされようという時、紅家に助けを求めるという名目で、本当は自分の主となる人間を探す為に下山する。次期紅家当主と目した黎深には、「滅びるなら勝手に滅べ。私の知ったことか。どうでもいい」という言葉で切り捨てられた。何の感慨も湧かなかったと言いつつ、腹いせに本当に滅ぶつもりで帰郷したり、戩華のことをどうでもいいと黎深の言葉を引用して扱き下ろしている。今でも黎深や紅家には思うところがあるが、黎深個人は嫌いではない。戩華に対しては当初、わざと相手にしなかったが、生き延びざるを得なくなってからは激情を抑えられなくなった。 『紅梅』から度々、黎深に宰相を降りないと死ぬと警告されていたが、紅家当主の言を聞き入れることは王権の失墜に繋がると断る。黎深を通してではなく紅姓官吏の暴走から紅家の恭順を狙い、『黒蝶』で曲がりなりにも達成する。黎深の上司としての責任については事前に皇毅らと打ち合わせていたのか問われることなく、黎深の部下に当たる絳攸に転嫁した。『白虹』にて蘇芳が御史に昇格すると、彼に飛蝗の変色について教え、蝗害に備える。神事には疎く、『黄昏』からは晏樹が引き起こした災害の対応に追われて、劉輝の立場を蔑ろにせざるを得なくなる。旺季には拾われた恩義を感じており、彼を裏切らないで済むよう、度々劉輝を試していたが、最終的に劉輝こそが自分の主君と認める。 宰相を引き受けた理由は、自分が成し遂げたいことがあるから。その内容は「最後まで自分を信じる『誰か』に会い、その『誰か』の願いを叶えること」。最後まで自分を信じた劉輝の願いに応え、劉輝と旺季の会談の場に北方三家の起請文と軍勢を率いて現れた。 上治6年の初秋、姫家滅亡時に吸った毒と過労で死去する。転地療養を勧められていたが、劉輝が認めず、そのことを臣下冥利に尽きると感じていた。
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