解体・吸収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 22:30 UTC 版)
「別失八里等処行尚書省」の記事における「解体・吸収」の解説
1260年、モンケが急死すると後継者の座をめぐって弟のクビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発し、モンゴル帝国の支配体系は激変せざるをえなくなった。東方ではクビライが継承戦争を制して正当なカアンの地位についたものの、イラン方面ではフレグが諸王の共有物たる征服地域を一方的に占有して自立し(フレグ・ウルス)、中央アジアでは傍系の出であるアルグがチャガタイ家当主となって自立した。「別失八里等処行尚書省」はアルグの時期に事実上チャガタイ・ウルスによって吸収・解体されてしまったものとみられる。 ところが、アルグが1266年に急死すると中央アジア情勢は再び混乱し、最終的にチャガタイ・ウルスを支配下においたオゴデイ家のカイドゥが中央アジアの覇者となった。ただし、中央アジアの中でも天山ウイグル王国のみはクビライの大元ウルスに属していたため、ウイグリスタンはカイドゥ・ウルスと大元ウルスの争いの最前線としてしばしば戦場となった(カラ・ホジョの戦い)。しかし、カイドゥはモンケ時期から引き続きマスウード・ベクを登用して定住民支配を委ねていたため、 支配層は激変したものの大枠ではモンゴル人による中央アジア支配の形式は変わらず続いていたものと考えられている。そのカイドゥも14世紀に入って大元ウルスとの戦争(テケリクの戦い)の中で亡くなると、今度はチャガタイ家のドゥアがカイドゥの勢力を乗っ取り、「チャガタイ・ウルス」を中央アジアに復興させた。チャガタイ・ウルスは1320年代後半のケベクの治世までにはウイグリスタンも掌握したため、「別失八里等処行尚書省」の故地は全てチャガタイ・ウルスによって継承されることになった。
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