小田急が箱根湯本へ乗り入れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 18:40 UTC 版)
「箱根登山鉄道鉄道線」の記事における「小田急が箱根湯本へ乗り入れ」の解説
これより少し遡る1946年には東京急行電鉄(大東急)が策定した『鉄軌道復興3カ年計画』の中には、東急小田原線(当時)の箱根湯本駅への乗り入れ計画が含まれていた。1948年6月1日に大東急から分離独立した小田急電鉄(小田急)では、同年10月よりノンストップ特急の運行を開始していたが、競合路線である東海道本線に対抗するには箱根湯本駅まで直通すべきと考え、この乗り入れ計画を推進することになった。 しかし、この乗り入れには解決すべき問題点がいくつもあった。 三線軌条の分岐器は可動箇所が5箇所となる複雑な構造 鉄道線の軌間は国際的な標準である1,435 mmであったが、乗り入れてくる小田急の軌間はそれより狭い1,067 mmであった。どちらかに統一しようにも、80 ‰の急勾配を上る能力のある電動機は当時の技術では1,067 mmの規格では収まらなかったため、鉄道線の軌間を1,067 mmに改軌することは不可能であった。また、小田急を1,435 mmに改軌するのは、車両数が多いうえ距離も相当なものとなってしまうため、膨大な費用が必要で、まだ戦後の復興途上においてはそのような負担は無理であった上、国鉄との貨物輸送において貨車の直通が不可能となり、貨物収入が激減してしまうことになる。そこで、鉄道線のレールの内側に小田急の車両のためにもう1本レールを敷設する三線軌条を採用することとなった。なお、共用するレールについては山側(小田原駅を発車すると進行方向右側)とされたが、これは万が一小田急の電車が脱線を起こした場合に、外側の登山電車のレールに引っかかることによって、海側(進行方向左側、国道1号が並走)への転落を防ぐためである。通常の分岐器は可動箇所が2箇所であるが、三線軌条の分岐器は可動箇所が5箇所となる複雑な構造となり、当初は手動で梃子によって切り替えを行っていたが、1人では梃子が重くて動かせず、梃子に綱をつけて2人がかりで引っ張ったという。その後、分岐器の切り替えは電動化された。 三線軌条の導入によって、問題になったのは車両の連結器であった。登山電車は前述の通り特殊な連結器であったが、当時の小田急では自動連結器を使用していた。通常ならアダプターの役割を果たす中間連結器を介して非常時の連結に備えることになるが、三線軌条では軌道中心と車体中心がずれるために、仮に連結器を統一したとしても連結ができない。このため、非常時に他の車両による牽引が必要な場合は、もっとも近くにいる同じ会社の車両を救援車両として連結することになった。車体中心のずれは駅のプラットホームと車両の間にも影響し、特に小田急の車両では台枠面での車体幅が2,800 mmであるのに対し、登山電車の車体幅は2,520 mmと狭いことから、線路を共用する側にプラットホームがある場合、登山電車では30 cm以上の隙間ができてしまうことになった。 また、鉄道線の架線電圧は当時直流600 Vであったが、乗り入れてくる小田急の架線電圧は直流1,500 Vであったため、小田急の車両が乗り入れる区間では架線電圧を直流1,500 Vに昇圧し、箱根湯本駅構内には架線死区間(デッドセクション)が設置され、登山電車には複電圧に対応する装置が設けられることになった。ただし、これによって直流600 Vのままの軌道線へは直接給電ができなくなり、箱根湯本駅から送電線による給電をせざるをえなくなった。 その上、軌道条件も異なっていた。小田原駅と箱根湯本駅の間は最急勾配は40 ‰で、箱根湯本駅から先の80 ‰と比べれば緩い勾配であったため、箱根登山ではこの区間を「平坦線」と称していた。しかし、当時の小田急における最急勾配は25 ‰で、40 ‰という勾配はそれをはるかに超えており、小田急の車両にとっては平坦どころではない。そのような勾配が1 km以上も続くため、小田急の車両のブレーキ装置についても考慮しなければならなかった。このため、小田急ではブレーキ装置に改良を施工した車両のみを乗り入れさせることになった。 このほか、風祭駅に列車交換設備を新設したほか、乗り入れ区間にあるトンネルや鉄橋なども検討が重ねられた。 技術的な問題のほかに、経理上の問題も発生した。レールを1本増設することによって資産が増加することになるが、どちらの会社の資産として扱うかという問題が生じた。これについては、箱根登山鉄道の施設を利用する代価として、対応する費用については小田急が負担することになった。 これらの問題点を解決しつつ、対応を進めていった。東京芝浦電気と汽車会社の労働争議によって車両関係の改造が遅れるという障害もあったが、1950年8月1日より小田急電車の乗り入れが開始された。乗り入れ当日は箱根湯本駅前には小田急の乗り入れ開始を祝してアーチが飾られ、小田急の電車が到着すると花火まで打ち上げられた。この乗り入れ開始によって、小田急を利用して箱根を訪れる利用者は倍増、鉄道線の利用者数も前年と比較して27 %の増加をみるなど、利用者数は著しく増加した。 1964年にはそれまで箱根湯本駅に併設されていた車庫を入生田駅に隣接する場所に移設、1972年には列車集中制御装置 (CTC) が導入された。1972年3月15日には箱根彫刻の森美術館最寄の二ノ平駅が彫刻の森駅に改称された。1980年からは小田急の直通列車の大型化に対応した改良工事が開始され、1982年7月12日からは小田急から直通する急行列車は全長20 mの車両による6両編成に増強された。
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