小田急と国鉄の共同開発へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:11 UTC 版)
「小田急3000形電車 (初代)」の記事における「小田急と国鉄の共同開発へ」の解説
この頃、国鉄でも高速車両の研究を進めていた。1946年には山本の友人である島秀雄が、日本海軍航空技術廠にいた三木忠直や松平精などを研究所に招き、「高速台車振動研究会」を設立して研究を行った。航空技術廠から研究所に移った研究者たちは航空機の技術を導入した鉄道の高速化を研究し、台車の振動問題については、松平の研究によって解決策が見出されつつあった。 それまでの研究所は、開発よりは試験を行うことが多い研究機関であったが、1949年9月に大塚誠之が所長として着任すると、大塚は研究者に自由な研究を奨励し、研究成果の発表も積極的に行うように指導した。また、外部からの研究受託や設計も積極的に受けるようにした。 この方針を受けて、1953年9月に三木が発表した研究成果の内容は「軽量で低重心の流線形車両であれば、狭軌においても最高160km/h・平均125km/hで走行が可能で、東京と大阪を4時間45分で結ぶことも可能である」というものであった。ただし、この時の想定では、突起物を全て車体内部に取り込むという徹底的な空力設計を採用 する一方で、電車方式(動力分散方式)ではなく1,200馬力の電気機関車牽引による7両編成の客車列車(動力集中方式)とする構想であった。 この構想は、国鉄本社から「これは本社が考えるべきことである」と批判を受けた が、運輸省は逆に「研究補助金を出すので申請するように」と通告した。そこで、日本鉄道車両工業協会で研究を受託するために「超高速車両委員会」が発足した。研究を重ねた後の1954年9月には「全長100.9mの7両連接車、自重113.3t、電動機出力は110kWが8台、定員224名、最高速度は150km/h」を目標にした車両構想が打ち出された。 山本はこの研究発表に着目し、1954年10月19日に 研究所に対して「特急車両として世界的水準を抜くものにしたい」 と、新型特急車両の企画・設計全般について技術指導を依頼した。 小田急と国鉄は東京と小田原の間で旅客数を争うライバル関係にあり、現実に国鉄80系電車運行に対して小田急が反対していた経緯もあるので、この依頼は非常識にさえ見えた。しかし、この当時、島は桜木町事故の後に国鉄を退職していたものの、腹心の部下だった者を通じた影響力を行使できる立場にあった。国鉄内部でも当時既に高速電車の計画はあったが、大組織の国鉄ではなかなか理解が得られなかった。島は「私鉄が導入して成功すれば、国鉄も高速電車の導入に踏み切るだろう」と考えた。また、研究所側でも「小田急の構想に乗ることで研究成果の確認が可能になる」と考えた。研究所では小田急の要請に全面的に応じることとし、1954年10月25日から 研究所が小田急の研究を受託するという形式で 新型特急車両の共同開発が開始された。
※この「小田急と国鉄の共同開発へ」の解説は、「小田急3000形電車 (初代)」の解説の一部です。
「小田急と国鉄の共同開発へ」を含む「小田急3000形電車 (初代)」の記事については、「小田急3000形電車 (初代)」の概要を参照ください。
- 小田急と国鉄の共同開発へのページへのリンク