小田急の目標とは? わかりやすく解説

小田急の目標

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:11 UTC 版)

小田急3000形電車 (初代)」の記事における「小田急の目標」の解説

1948年6月1日小田急大東急から分離発足した際に取締役運輸担当として就任した山本利三郎は、学生時代にその存在知って以来連接車関心抱きスペイン開発され連接車であるタルゴ存在知ってからは「あれを電車でやれないか」と考えていたという。国鉄東京鉄道局に在籍していた1935年には、業務研究資料で「関節式新電車ニ就イテ」と題する構想出した。これは、「関節車(連接車)を導入することで騒音動揺乗り心地改善した上で先頭部流線形にし、駆動方式吊り掛け駆動方式から改良して騒音低減した高速電車東京沼津の間で走らせる」という内容であった。この発想当時国鉄はまった受け入れられなかったが、山本その後連接車導入関心持ちつづけ、1948年冬には当時まだ新入社員であった生方良雄とともに当時既に連接車として運用されていた西日本鉄道500形構造保守について視察した一方分離発足後小田急では、戦争疲弊した輸送施設復旧改善主目的として 設置され輸送改善委員会が、「新宿小田原60分で結ぶ」という将来目標設定した。この目標値は、戦前阪和電気鉄道阪和天王寺東和歌山の間61.2kmを45分で結び、表定速度は81.6km/hに達していたことを意識したもの で、この表定速度であれば新宿小田原の間82.8km(当時)は60分で走破できると考えたのである大阪出身である山本は、日ごろから阪和電気鉄道引き合い出していたという。この目標は、単に阪和電気鉄道記録を破ることを目的にしていたわけではなく速度向上によって車両回転率高めることによって経営効率の向上を図ることも目的としていた。 当時は「高速走行のためには大出力の主電動機使用して粘着性能を稼ぐために車体重く頑丈にする」ということ常識とされていた。しかし、この時の小田急経営基盤はまだ脆弱で、スピードアップ目的として施設全般に多額投資を行うことはできなかった。また、当時導入され国鉄モハ63形改造車である1800形乗り心地悪く保線部門から「線路を壊す車両」として嫌われという事実もあった。このため軌道変電所などの投資極力抑える一方で車両高速性能向上するという方針立てられた。この方針に従い軽量高性能車両開発進められることとなり、研究試験などを繰り返していた。 1954年登場した2100形 では車体軽量化実現駆動方式についても同年登場した2200形 ではカルダン駆動方式実用化された。また、この年9月11日には新型特急車両開発正式に決定した

※この「小田急の目標」の解説は、「小田急3000形電車 (初代)」の解説の一部です。
「小田急の目標」を含む「小田急3000形電車 (初代)」の記事については、「小田急3000形電車 (初代)」の概要を参照ください。

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