小田急の目標
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「小田急3000形電車 (初代)」の記事における「小田急の目標」の解説
1948年6月1日に小田急が大東急から分離発足した際に取締役兼運輸担当として就任した山本利三郎は、学生時代にその存在を知って以来連接車に関心を抱き、スペインで開発された連接車であるタルゴの存在を知ってからは「あれを電車でやれないか」と考えていたという。国鉄東京鉄道局に在籍していた1935年には、業務研究資料で「関節式新電車ニ就イテ」と題する構想を出した。これは、「関節車(連接車)を導入することで騒音・動揺・乗り心地を改善した上で、先頭部を流線形にし、駆動方式も吊り掛け駆動方式から改良して騒音を低減した高速電車を東京と沼津の間で走らせる」という内容であった。この発想は当時の国鉄ではまったく受け入れられなかったが、山本はその後も連接車の導入に関心を持ちつづけ、1948年冬には当時まだ新入社員であった生方良雄とともに、当時既に連接車として運用されていた西日本鉄道500形 の構造や保守について視察した。 一方、分離発足後の小田急では、戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主目的として 設置された輸送改善委員会が、「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標を設定した。この目標値は、戦前に阪和電気鉄道 が阪和天王寺と東和歌山の間61.2kmを45分で結び、表定速度は81.6km/hに達していたことを意識したもの で、この表定速度であれば、新宿と小田原の間82.8km(当時)は60分で走破できると考えたのである。大阪出身である山本は、日ごろから阪和電気鉄道を引き合いに出していたという。この目標は、単に阪和電気鉄道の記録を破ることを目的にしていたわけではなく、速度向上によって車両の回転率を高めることによって経営効率の向上を図ることも目的としていた。 当時は「高速走行のためには大出力の主電動機を使用して、粘着性能を稼ぐために車体も重く頑丈にする」ということが常識とされていた。しかし、この時の小田急の経営基盤はまだ脆弱で、スピードアップを目的として施設全般に多額の投資を行うことはできなかった。また、当時導入された国鉄モハ63形の改造車である1800形の乗り心地が悪く、保線部門から「線路を壊す車両」として嫌われたという事実もあった。このため、軌道や変電所などの投資を極力抑える一方で、車両の高速性能を向上するという方針が立てられた。この方針に従い、軽量・高性能な車両の開発が進められることとなり、研究や試験などを繰り返していた。 1954年に登場した2100形 では車体の軽量化が実現、駆動方式についても同年に登場した2200形 ではカルダン駆動方式が実用化された。また、この年の9月11日には新型特急車両の開発が正式に決定した。
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