小田急の乗り入れと軌道線の廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:22 UTC 版)
「箱根登山鉄道」の記事における「小田急の乗り入れと軌道線の廃止」の解説
1945年の終戦後、まず軌道線が同年9月12日に運行を再開したが、軌道線用の車両が3両しか残っておらず、この時点では平常通りの運行には至らなかった。1946年には本社を小田原市緑町に移転した。一方、戦時統合により巨大な鉄道事業者となっていた東急からは、1948年6月1日に小田急電鉄(小田急)・京浜急行電鉄・京王帝都電鉄が分離したが、元来小田急電鉄が運行していた井の頭線は京王の所属となり、もともと東急の傘下にあった神奈川中央乗合自動車(当時)と箱根登山鉄道が小田急の傘下に入ることになった。 1948年9月にはアイオン台風により鉄道線は大きな被害を受け、復旧は1949年7月6日にずれ込んだ。その後、鉄道線の箱根湯本駅まで小田急の電車を乗り入れさせることになり、1950年8月1日から小田急の電車が箱根湯本駅まで直通運転するようになった。しかし、この結果、鉄道線は小田原駅から箱根湯本駅までの架線電圧が直流1,500Vとなり、それまで直接鉄道線から直流600Vの給電を受けていた軌道線は昇圧ができず、止むを得ず箱根湯本から送電線を設けることになったが、これは施設維持の負担や経費面から問題となった。さらに、国道1号の交通量が増加したことに伴い、神奈川県は国道1号の改修工事を行なうことを決定、小田原市を通じて箱根登山鉄道に軌道線の廃止を打診した。箱根登山鉄道側は廃止に消極的であったが、最終的に神奈川県が9000万円、小田原市が300万円の補償金を箱根登山鉄道に支払うことで合意、1956年5月31日限りで軌道線は廃止された。
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