小田原開城へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:45 UTC 版)
5月9日、後北条氏と同盟を結んでいたはずの奥州の伊達政宗が、秀吉の参陣要請(要求)に応じて本拠から小田原へと向かった。これにより、小田原城の外に北条氏を支援する勢力は無くなった。 開城への勧告は5月下旬頃から始められており、それに伴う交渉は、支城攻略にあたった大名たちなどによって、それぞれに行われていた。6月に入る頃、小田原を囲む豊臣軍主力の陣中の風紀が乱れ始め、乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる。この包囲中、戦らしい戦と言えば、7月2日に北条氏房(太田氏房)配下の広沢重信が蒲生氏郷・関一政勢に夜襲をかけ、広沢と蒲生が一騎打ちを行ったのが後北条氏側唯一と言える攻勢であり、囲む方は、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と6月25日夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった。それ以外は、互いの陣から散発的に鉄砲を射掛けるぐらいのものであった。 そんな中、後北条氏側から離反の動きが見えるようになった。4月9日、小田原城に在陣中の皆川広照が豊臣軍に投降し、6月初旬には家康の働きかけによって、上野の和田家中と箕輪城家中が城外に退去している。 この6月に入る頃には、氏房、氏規、氏直側近らによって、親族の徳川家康と織田信雄を窓口とした和平交渉が進んでいた。後世になって成立した『異本小田原記』では伊豆・相模・武蔵領の安堵の条件での講和交渉は行われ、同じく『黒田家譜』では、その講和条件を後北条氏が拒否したために秀吉が黒田孝高に命じて交渉に当たらせた事などが記されているが、実際のこの頃には後北条領は家康に与えられることになっていたと考察されており、伊豆は4月中旬には既に家康の領国化が始まっていた。6月7日、織田信雄家臣の岡田利世が小田原城へ入り、氏直単独と二日間面談し、内容を徳川家康に報告している。城中では講和開城の噂が流れていて、警戒が緩んでいたようであり、12日には氏直から小幡信貞に対し、城内の綱紀粛正の命が出ている。同12日に氏政の母である瑞渓院と、継室の鳳翔院が同日に死去しているが、「大宅高橋家過去帳」の鳳翔院の記載から共に自害と見られている。 6月16日、北条氏重臣であった松田憲秀の長子の笠原政晴が、数人の同士とともに豊臣側に内通していたことを、政晴の弟の松田直秀が氏直に報告することで発覚し、政晴は氏直により成敗された。 6月22日、小田原城の篠曲輪を夜半の雨中に徳川家中の井伊直政が攻撃し、占拠した。 6月23日に落城した八王子城から守備隊だった者たちの多数の首と、将兵の妻子が城外で晒し者にされたことは、後北条氏側の士気低下に拍車をかけた。 残されていた北条氏の拠点城も、北の鉢形城は6月14日に守将の北条氏邦が出家する形で開城となり、伊豆の韮山城もまた6月24日に開城し、北条氏規は秀吉の元に出仕した。八王子城の落城に続いて津久井城も開城した。 6月24日、黒田孝高と共に織田信雄の家臣滝川雄利が小田原城に入り、降伏勧告を行った。先に降伏した氏規も小田原城に入り、降伏を説得している。 6月26日、小田原城を見下ろす石垣山に、関東初の近世城郭の威容を誇った「一夜城(石垣山城)」が完成したことも、後北条氏側に打撃をもたらした。城中では後北条氏の一族・重臣が、豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで長く議論が紛糾した。この印象が後世に強くなり、本来は「平時に月2回ほど行われていた、後北条氏における定例の施政方針重臣会議」を指すものであった「小田原評定」という言葉が、「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として使われるようになった。また豊臣方はこの頃、城方を精神的に追い詰めるため、夜中に包囲軍全軍で城に向かって鉄砲の一斉射撃をやっていたとする話も残る。 7月2日、太田氏房勢が蒲生氏郷・関一政と織田信雄の陣に夜襲をかけた。最後の意地とも言えるこの攻撃を予想していなかった蒲生陣は一旦取り乱すが、自ら槍を取った氏郷や蒲生郷可ら主従は奮戦し、これを退けた。 7月5日、氏直と太田氏房は滝川雄利の陣に向かい、滝川と黒田孝高を通して、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、秀吉に氏直の降伏が伝えられた。
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