富洲原漁港
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 05:05 UTC 版)
富洲原は魚介類の豊富な伊勢湾沿いであり漁業は古い時期から実施されていた。明治以前の漁獲方法は以下である。地曳網 打瀬網 海老網 細口網 白魚網 浮曳網 横曳網 揚繰網 貝類の捕獲は富田の焼き蛤・赤貝・鳥貝・おの貝・ばか貝・しじみ貝などの種類である。 明治15年の三重県統計書によれば以下である。 富田一色漁港地曳網22隻 揚繰網14隻 打瀬網33隻 天ヶ須賀漁港地曳網8隻 揚繰網12隻 漁獲量の内容は鰯・ひしこの比率が最大であり水産加工も鰯加工とひしこ加工に集中している。鰯の丸干・かたくち煮干・田作などの加工業者がある。加工組合数16軒のうち常時7軒~8軒が加工している。主な販売先は大阪市場・京都市場・名古屋市場である。大正初期には打瀬網船が大韓民国の釜山・統営方面へ14隻~15隻が出漁している。 明治初期には若干の漁法技術の改良と進歩が見られた。参考文献の水産博覧会解説書には地曳網は鰯が少し捕漁されたが明治4年頃から揚繰網を使用して以後大量の捕漁があった。貝類採取は従来は鎌で海底を切り足で踏み蛤殻を取る方法は少しの捕漁であったが、明治初期に腰巻籠や貝巻籠などの漁具を愛知県から導入したなどの技術改良がされた。全国的な綿魚網の普及、石油集魚燈の使用が伊勢湾富洲原に波及した。 大正末期から昭和初期にかけて漁船の動力化の時代で、日本全国では大正末期に10tから20tの漁船を中心に動力化が進んだが、富洲原漁港では昭和一桁の昭和初期に5t以下の小型船の動力化が急速に進んだ。動力化による貝桁網の出現は貝類採取に大きな役割があった。 漁船の動力化により漁獲高が多くなり、水産加工業者も24軒~25軒と増加した。加工品は鳥貝類・かたくち煮干・いわし丸干・鯵の開きなど地元の揚繰網・地曳網による捕獲品である。桑名の焼き蛤や時雨蛤は全国的に有名だが赤須賀から富田の海が主産地である。赤須賀から富田までの入漁権の協定で富田一色漁港や富田漁港や赤須賀漁港や川越漁港では舟蛤と言って船で捕獲した。富田漁港はかご巻き、富田一色漁港はうんて巻き、亀崎漁港と城南漁港はこし巻き、赤須賀漁港はかいと巻きと各自考案した道具を使用して蛤をとったが、天ヶ須賀漁港だけは徒蛤といって手足を使用して蛤をとった。かまがきは鎌でかいとる方法。ふみだしは足でさぐってとる方法である。最盛期は昭和初期で7月中の産卵のため禁漁期を除き天ヶ須賀では毎朝蛤のせり市が行われた。伊勢湾の海苔養殖は富田一色・天ヶ須賀では昭和10年の創業で、最初は天ヶ須賀16名、富田一色4名であったが戦中には35名まで増加した。昭和8年度に富洲原町の有力者の仲介で富一水産株式会社が2つの魚市場が合併して広小路浜横町に設立された。昭和16年度に株式会社から商業組合へ組織変更して、昭和21年度には三重県水産業界の荷受け所となって魚の配給施設となって昭和24年度に再び富一水産株式会社となった(富一水産は三重県四日市市の生鮮魚市場として最大規模であった。昭和10年度に漁業組合所属の共同販売所があった。生産団体が直接販売する事を奨励するために開設された。加工業者を対象にヒシコ・小女子を取り扱った)。
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