塩役運河についての歴史書の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/27 04:03 UTC 版)
「塩役運河」の記事における「塩役運河についての歴史書の記述」の解説
塩役運河の構成された歴史は江戸時代の歴史書の勢陽五鈴遺書によると、明暦年間(1655年~1685年)ころの富田川の水源は、朝明郡垂坂山中より富田川がそそぎ出て茂福村と西富田村の官道の旧東海道に流れて東に至り、富田一色の北に流れて東の海の伊勢湾に入ると記述されている。 富田地区の郷土史によると朝明川から引いた羽津用水と大矢知・蒔田方面より流れる田んぼの水は、下の宮へと集まってくる、花の木までくると河川らしくなり、近鉄富田駅北側の踏切から暗溝になっている地下につくった溝をくくり、富田駅前通りと富田中央通りの下を流れて富田中町のうなぎや善兵衛の橋の横でこの暗溝を出て、富田宮町通りに沿って鳥出神社の『宮橋』を下ると、国道1号線の角へ出る、これより下流は流れを南北に変更して、掘り割りの塩役運河となり、川幅も拡張されて、『塩役橋』と『平治郎橋』を過ぎると、富田一色飛鳥神社の裏から松原と富田一色の境界の『海運橋』をくぐり『港川』と呼ばれている、汐の香りがただよう『富洲原漁港』に出ると記述されている。 豊富川について、この川は花の木を通り富田の町に流れてくるので『花の木の川』と呼ばれた事があるが、古代には松ヶ浦海水浴場だった富田と富田一色の浜を『豊富の浦』と称していて、この事から『豊富川』と呼ばれている。富田一色の『一色』と云う地名については、『出郷』と言って新開地に付けられた名称であって、比較的新しくできた土地である。塩役についてはガンガン堤の西の方で塩を取っていたので『塩役』と呼ばれた。
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