富洲原町の人口
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 23:48 UTC 版)
四日市市史や富洲原地区の郷土史料の人口統計では、三重郡富洲原町の人口は大正時代初期には富田町と同数レベルだったが、大正時代に富洲原町は約6000人増加して、富田町は1700人の増加であったので富洲原町のほうが4000人多くて経済的に差をつけた。1921年(大正10年)には1万人を突破した。 1941年(昭和16年)の四日市市に合併する直前の人口統計は合計約1万6000人で、その内男女比は男性人口が約6000人対<女性が約10000人(1万人)の割合で、性比が60%で女性比率が日本一多い市町村であった。昭和13年調査の東洋紡績富田工場の従業員が合計3652人であり(綿糸・綿布・紡績工場であり、男性従業員が246人で若い女性労働者が3406人)と昭和13年調査の平田紡績の従業員が2544人であり(製網・綿糸・綿布工場であり、男性従業員が381人で若い女性労働者が2163人) や三重織布工場の従業員が211人で(タオル工場・別珍製織工場であり、男性従業員が18人で若い女性労働者が196人)や平田浴布の従業員が30人で(タオル製織工場であり、男性従業員が2人で若い女性労働者が28人)などの若い女性労働者の流入が理由であった。 若い女性人口が多かったため伊藤平治郎は女子教育に力を入れて、三重郡富洲原町に三重県富洲原町立実科高等女学校(戦後に現在の三重県立四日市高等学校に統合された)を開校をした。
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