富洲原駅と三岐鉄道の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 07:42 UTC 版)
「伊藤平治郎」の記事における「富洲原駅と三岐鉄道の建設」の解説
1928年(昭和3年)には伊勢電鉄富洲原駅(現在の富洲原保線車両基地)を三重郡富洲原町の松原地区の平町に誘致をする。1945年(昭和20年)に川越村の朝明川付近にあった川越駅が廃止されて、富洲原駅に吸収合併される形式で川越町豊田地区に近鉄富洲原駅が移転する。その後の近鉄川越富洲原駅の前身を建設した。 三岐鉄道の設立発起人となった。三岐鉄道の社史によると「細かい数字に触れて説明を聞かれる性格であった」と記述されている。 また三岐鉄道の建設に関わり取締役をつとめた。伊藤平治郎は三重県と滋賀県または岐阜県を結ぶ三岐鉄道構想や富洲原東洋町商店街つくりに貢献した三重郡富洲原町(後の四日市市富洲原地区)発展の功労者である。三岐鉄道構想は四日市市富田と関ヶ原を鉄道で結びさらに福井県敦賀市を結ぶ四日市市内富田駅→関ヶ原駅→敦賀駅の四日市〜敦賀間の日本横断鉄道構想である。平田佐矩四日市市長による四日市と琵琶湖と敦賀間の日本横断運河構想もあった。富田駅→保々駅→米原駅間の鉄道計画もあった。保々駅と四日市常盤と川島間の浅野セメント鉄道計画もあったが、富田駅と西藤原駅間の小野田セメント鉄道に結局そのルートで落ち着いた。関ヶ原までは開通しなかった。
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