日本横断運河構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 17:13 UTC 版)
日本列島を横断する日本横断は、三重県四日市市の政治家や実業家などの四日市市の夢であった。稲葉三右衛門や伊藤平治郎などの四日市市内の地域功労者が、日本横断鉄道構想を立てるが達成されず、結局三重県内を走る三岐鉄道となった。 日本横断鉄道から日本横断運河と形を変えた計画として、四日市港の伊勢湾から琵琶湖を中間に敦賀港がある日本海を結ぶ日本横断運河構想を立て調査目的に「運河建設促進規成同盟会」結成の原動力となる。具体的に鈴鹿山脈を越えるのは不可能とする調査結果から、当初は、敦賀から琵琶湖を通じて淀川を下って大阪湾に出る、阪敦運河構想であったが、当時の平田佐矩四日市市長が熱心に計画をしたこともあって、運河計画は伊勢湾の四日市港を起点にする事により揖斐川を利用して北上し関ケ原付近に運河を建設して姉川経由で琵琶湖に出て、塩津浜より敦賀にむけて開鑿する運河を建設するというものになった。 岐阜県と滋賀県と福井県の山間部の高さが原因で技術的に難しい公共事業との疑問があるが、当時の高度な運河技術で可能であった。パナマ運河のようなロックゲート方式で水位を調整して日本海と太平洋をつなぐという大構想である。運河の幅により総工費2500億円から3500億円というものであった。関係五県三市(愛知県・岐阜県・三重県・滋賀県・福井県、名古屋市・敦賀市・四日市市)などで建設期成同盟会が結成され、自由民主党副総裁だった大野伴睦が会長となった。 1963年(昭和38年)には政府予算の調査費1000万円がついたが、それ以降、大野伴睦副総裁と平田佐矩四日市市長が死去した事と、北栄造福井県知事が引退して、畑守三四治敦賀市長も落選するなどで日本横断運河の建設を推進する中心人物を失い、急速に下火になり、ついに1970年(昭和45年)にいたって「中部圏開発整備本部」により調査の打切りが発表された。日本横断運河構想は三重県四日市市の平田佐矩市長が大野伴睦自民党副総裁に提案したのがきっかけである。1959年(昭和34年)にカナダでセントローレンス海路(運河)が開通するなど、世界で運河が脚光を浴びていた時期だった。「四日市敦賀国道期成同盟会」の会長としての四日市と敦賀間の国道である国道365号の建設を実現した。 「日本横断運河」も参照
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